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ごま、ぬりかべ、鳩

夕刻。今すぐにでも崩れそうな木造家屋の中に、5畳ほどの和室。つぶれた座布団に向かう三面鏡。三面鏡は客席の方を向き、客席を映している。薫が入る。せっせと朝の支度をすませながら、化粧のためか三面鏡の前に座る(この時、薫の顔が客席から見えるように三面鏡は多少高く設置しておくか、場合によっては客席側へすこし傾けておく)。
三面鏡に、どこから来たのか、一羽の鳩が止まる。薫は気に止めず、鏡を、いや、自分を見つめている。

薫「もうすべてがどうでもよくなる夜。
これまで保ってきたバランスが崩れそうになるその時にはすでに。

こんな精神状態で、あなたに手紙をしたためるのは、あまりに不健康です。
ですが、わたしがあなたのことを思いながら過ごしてきた時間は、きっとあなたが想定しているよりもはるかに長く、重いことでしょう。
それはまるでぬりかべのように、わたしの前に立ちはだかり、歩けど歩けど景色の変わらぬ樹海のようです。わたしは長いこと待っていました。この無限地獄が自然になくなることを。

あの時のわたしはあなたから見て、どのように映っていたことでしょう。決して理性的ではなかったと思っておられることでしょうが、それは違います。わたしは一貫して理性的であったのです。理性的であるからこそ、狂っていたのです。わたしにとってあの行いは何よりも考え抜いた末の、一大決心だったのです。だから、おかしいのです。

わたしは常に非理性でいることによって、社会生活を保ってきたと思っています。わたしが所属してきた社会集団において、わたしが非理性的であることは何よりもわたしに寄せられた期待であったからです。わたしが非理性的であれぱあるほど、社会はわたしを認めてくれました。わたしが、わたしとして生まれ、生きていくことを認めてくれたのです。

その社会の中で、わたしがしてきたことは理性的な非理性だったのです。これが他の理性的非理性の皆さまにとってすればいかに薄っぺらく、中身のないものであるかは自覚しているつもりです。わたしはわたしが思っているほど苦労していないと思っているのです。

そのような愚かなわたしが、あの日、あなたに対して行ったことは決して許されるべきものではありません。あなたとわたしのあいだに流れる柔らかくも頑丈な絆を打ち砕いてしまったからです。あの日以来、あなたはわたしを心から信用したり、哀れんだり、心地よく思っていただける間柄は無くなった、いえ、死んだとしても偽りないとわたしには思われます。

今からわたしがどう足掻こうとも、贖罪になるとは思いません。「贖罪など大袈裟だ。あなたのしたことをあなたが思っているよりも多くの人が毎日のようにしているのだから。」そう声をかけてくれるかもしれません。ですが、そんなことをおっしゃるなら、あの日、わたしの手を握っていただいてもよかったではないか、わたしにはそのように考える性悪さがあるのです。なぜ、そのように優しくしてくださるのなら、あの日も優しく抱き締めていただけなかったのですか?
なぜ、わたしのお気持ちを察していただけなかったのですか?なぜ、わたしのこれまでに思いをはせ、そこに心から哀れんで唇を重ねていただけなかったのですか?決してあなたはそんなことしていただけなかったでしょう。でも、そんなのずるいではありませんか。

わたしにとってあなたは別次元の存在。わたしが愛を語るのに十分すぎるほどの拠り所。それだのに、なぜわたしをこのぬりかべから救っていただけないのですか?わたしはずっとこの景色を眺めなくてはいけないのですか?あなたが去っていくその背中を眺めながら、決して追いかけることのできない釘に刺された足を見つめ続けるわたしの気持ちが、どうして非理性的でしょうか。

わたしの前では、あらゆる道理、筋、条理、規則が本来の力以上にわたしにのしかかります。わたしは誰からも言われていないのに、どこかであなたと唇を重ねることがいけないことだと思い、自分で自分を罰するのです。それはきっとあなたもそうでしょう。あなたもあなたの正義の名の下、あなたなりの正義をあなたなりにご自分に課していらっしゃることでしょう。大変身勝手なわたしはそんなあなたの自縄自縛がなくなればいいのに、その不自由さが消えてなくなり、思う存分、わたしと逢瀬を重ねていただければいいのにとそう思うばかりです。そうしたらきっと幸せでしょう。わたしだけでなく、あなたもきっと。きっと。

あなたは今日もお仕事に向かわれているのですか。そうでしょう。きっとそうでしょうね。あの大きな橋を渡り、きちんとお仕事をなさっていたのでしょう。とても尊重されるべきことと思います。うじうじ、ぐじぐじと夕刻に至るまで三面鏡の前に座らずにいるわたしとは大違いでしょう。きっとあなたは、仕事場、そこからの帰り道、帰宅してから郵便ポストの中に溢れるあなたへのお言葉たちと戯れていらっしゃるんでしょう。あなたは立派です。ほんとうに立派です。そう思うわたしのことをわたしは殺したくなってきます。

あなたが立派にお仕事をされて、1日を終え、ご家族とご飯を食べていらっしゃる時にやっとわたしは三面鏡の前に座る勇気が湧いてきます。ここまであなたと出会うかもしれない確率が低くなってからしか、わたしはわたしと向き合うことができないのです。あなたがうるさいのです。わたしの脳髄、あばらの檻の中で、あなたがけたたましいのです。

きっとあなたはこの文をお読みになって、、、なっていただけるか、、、、お読みになっていただいた時、わたしはほんの少しだけ、お嫁になった気がします。身寄りのないわたしの暦にそっと行楽日和が刻まれる。こうして、わたしはほろりと帳を下ろすことができるのです。

ただ暇なわたしはちまちまとした時間に邪な気持ちがわなわなと炊き上げて参ります。あなたが好きなわたしの目元のほくろがいとおしく、そして、蛇となりわたしの身体にとぐろを巻くのです。

だからわたしは言い聞かせるのです。目元にごまがついているだけで何も変わりはしない。わたしはこの目元のごま以上の存在になることはかなわないのだから。このごま。この、ごま。この、、ごま。とんま。うすのろ。この、汚らわしい、ごま。ごま。ごま。ごま。ごま。ごま。、、、、、、、」

溶暗。
薫の「ごま」という声がしばらく聞こえたあと、じわりと客席が明るくなりカーテンコールとなる。
薫は、客席にいる"あなた"を見ないようにお辞儀をしてハケる。

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