TureDure 22 : 死にたいあの子を見送ることができるだろうか
人生、10年も生きれば死にたいと思うだろう。生を全うするなどとも言うが、苦しすぎる生から降りたいと思うこともまた、懸命に生きたことの証左ではないだろうか。
わたしはすすんで自死を肯定するわけではない。ではないが、しかし、わたしには、どこか死というものに親密で、安らかで、平穏な静謐を感じることもある。そしてわたし自身、どこか死を待ち焦がれているところもある。このからだがバラバラになり、コミュニケーションをやめ、風に吹かれて三々五々に散り散りになる様はまるで胞子のようだと思う。これもまた美しく、死することでこの世界にわたしが充満するような感じがする。
そうすると、わたしはかつて羽ばたきながら落ちていった胞子に浸っているのだという心地になる。わたしは歴史のただなかにいる、胞子になるまえの生命体だ。
「ひっそりと誰にも気づかれず死にたい」といったあの子が胞子になることをわたしは感じられるだろうか。その胞子にわたしが包まれた時にわたしはそれに気づくことはなかったとしても、見送ることができるだろうか。いつかあの子と過ごした時間をその胞子に語って聞かせられるだろうか。そして、忘れるでも、覚えているでもない地平に置いておくことができるだろうか。
陰鬱としたこの社会へと残された数多もの生を、ぷかぷかと浮かびあがらせるように、あの子はまっすぐ、生きていくだろう。
神様、わたしにそれを見送る権利をください。
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