「サモエの嫁入り箪笥」第1話
部屋にはサモエと妹のワカ、坊主のカキヤ、そして仏様が一人。仏様は生前はアンといった。サモエの旦那だった。生まれてから心臓弁膜症という病気で、永くは生きられないとわかっていた。一昨日、吐血してすぐに亡くなった。突然の夫の死に接したサモエはテキパキと葬式の手筈を整え、手際よく段取りを進めた。サモエは仏となったアンを通夜の時からじっと眺めていた。カキヤの唱える般若心経は、子供の頃に聞いていたおばあちゃんのものとはずいぶんとゆっくりで少しじれったかった。色即是空空即是色だったり、無無明亦無無明尽、及至無老死、亦無老死尽などという部分がサモエにはやけにはっきりと聞こえた。
葬式はスムーズに終わり、サモエとワカはアンの棺を見送った。その後、サモエは箒を掃くことができなかった。先ほどまでアンの身体を支えていた畳の井草の隙間のどこかにアンの何かが残っているかもしれないと思うと、とっとと掃いてしまいたいという思いともう少しこのままにしておこうという気持ちとがサモエの動きを封じていた。サモエ以上にワカの方が悲しみに暮れていた。めそめそと常にじわりじわりと泣き続けるワカの姿はかえってサモエにこのままではいけないという気持ちを芽生えさせた。ワカの少し落ち着いた頃合いをうかがって、サモエは家中を箒で掃いた。ワカは姉の切替えの早さに疑惑を持った。
「姉さんがそんなにすぐに踏ん切りがつくもんですか、私がずっとめそめそしていたのを見るに見かねてわざとそうして頑張っているんでしょ」
「あなたはいつもそうだけど、そうやって人の心のことを覗き見るような真似はよしなさい、たとえ踏ん切りがついていなくても家の清潔を保つために箒を掃くことなんて当然でしょ」
「私が心配しているのは、私が姉さんの悲しむ時間を奪ってないかということなの」
「前から言っていたでしょ、アンさんは心臓弁膜症だって、それこそお付き合いしていた頃から私はアンさんからずっと言われていた、「俺は若くして死ぬ、そうしたらサモエさんは若くして後家さんだよ?」、はなから決まっていた、見えていたことが現実になったってだけ、私はずっと小さく悲しんできたからもうとっくに用意はできていたの」
「そんなの私だって分かっていたんです、事前に分かっていたからって、実際に仏様が目の前にあると、どうしょうもない、しかもあんな突然に、急にやってくるだなんて分かっていても、納得できない、私はお兄さんとして、アンさんが大好きだったの、なんでアンさんが死ななきゃいけないの、納得できません」
「やめてよ湿っぽい、死んじゃったものはしょうがないでしょ、いくら悔やんだって、死んだら人はそれっきり、もう帰ってこないの、人は必ず死ぬでしょ、私だって、あなただって、それが道理でしょう?」
それからワカは黙ってしまって、その日はご飯も食べなかった。サモエにとってここまで静かな家は久しぶりだった。重苦しい沈黙がサモエの肩にずしんとのしかかる。まるでアンの心臓弁膜症が自分にも乗り移ったかのように、身体中の血液が逆流したようだった。これではまるで自分が間違った身体で生きているみたいじゃないか、サモエは逆流した血液に逆らいながらなんとか血液の流れを元に戻そうともがいては押し流されていく自分の姿を想像した。ワカの言うことは全て本当のことで、サモエが口にしたことは全てが嘘だとも言わんとしているかのような心地がしてなんだか自分を放り投げたくなってしまった。サモエはアンとよく歌った流行歌を口ずさんだ。歌えば歌うほどアンの姿が思い出されて、今日はもうダメだと思い、サモエは寝ることにした。
夜も更けた。虫たちと蛙たちの声はやかましすぎてかえって静かに思えた。虫や蛙たちは、いつもと変わりのない夜を歌い上げていた。サモエは浅い眠りの中でそのやかましい静寂に浸る。自分の願いとは裏腹にこの身体はちぐはぐにやかましくサモエに語りかける。自分の身体の歌声に耳を傾けてはいけないと思えば思うほど、その歌声は響いていく。サモエはなんとか虫や蛙たちにこの身を預けようと努力をした。もしそれでもうるさく身体が疼き続けるのならば、もうこんな身体など捨ててしまおうか。サモエはそれがいいのかもしれないと思った。この先にこんな夜を何度も何度も過ごすことになるのだとしたら、それこそ死んだも同然だ。自分はそれを乗り越えられるほど強くはない。
サモエは死について考えている間はなんだか気が安らいだ。死について考えている間が安らぎの時間になった。もし、サモエも死んだとしたら、ワカは悲しむだろうが、同時に徹底的にサモエを見限ることになるかもしれない。そうした方がワカにとっては血縁のしがらみからも徹底的に解放されることになる。家主の亡くなったこの家は抵当に入れてしまって、どこか好きなところに行くと良い。こんな死の香りのする姉のことなど忘れてしまって、盛大に生を謳歌してもらいたい。
その時、屋根の上に何かが落ちた。巨人が板をバシンと叩いたかのように短く、大きな音が上からした。つらつらと紡がれていたサモエの希死念慮は、その音によって中断を余儀なくされた。何か大きなものが屋根に落ちてきた。虫や蛙たちもなんだか少し静かになった。得体の知れないものが近くにいる、それだけが辺りの空気をピンっと張りつめる。サモエは息を殺して、そろりそろりと戸を開けて、外に出た。屋根の上が十分に見える位置まで出ていって、屋根の上を確認した。
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「姉さん、さっき姉さんのお部屋の方からとても大きな音がしなかった?何か、ドスンって、鹿が天から降ってきたみたいな音が。」
「私もそう思って表に出て下から屋根の上を見たんだけれど、何もいなかった、不気味ね、しょうけらみたいな化け物だったらどうしましょう」
「やめてよ、寝られなくなっちゃう」
「きっと猫か何かね、私たち、今は気が張ってるから、なんでもかんでも大袈裟に感じちゃうのかも、気にしなくていいことがどうしょうもなく気になって、ほんとは猫が転がっただけの音を、鹿でも降ってきたんじゃないかって。不安感って怖いものね」
「そうなのかね、明日にでもカキヤさんに相談してみたらいいかな」
「それもいいんじゃない、いつもみたく仏教のありがたいお話で心を軽くしてもらえるよきっと」
「まるで私が憑き物にでも憑かれてるみたいに言うじゃない」
「そうね、疲れているかもね、私たち。さ、もう寝ましょう」
「そうね、寝ましょう、おやすみなさい、姉さん、さっきはごめんなさい。一番疲れているのは姉さんだってのに、私は自分のことばっかり」
「ううん、ありがとうね、アンさんのこと、悲しんでくれて、あの人も喜んでるよきっと」
「おやすみなさい、姉さんもちゃんと休んで」
「ありがとう、おやすみ」
ワカはすたすたと自分の部屋へと戻っていった。サモエはワカの部屋の戸が閉まる音を聞いた。そして、サモエは布団には戻らず、音を立てないように慎重に、しかし素早く屋根の上へと登っていった。
夜はこうこうと最も深い時間になった。サモエは確かめたかった、屋根の上に落ちてきたものが自分の夢幻でないことをこの目でハッキリと。サモエははやる気持ちを精一杯の理性で抑えながらも、時々もたついて滑りそうになりながらも、一目散に屋根をめがけた。
屋根の上にいたのは、やはり、アンだった。
「アンさん、、アンさんよね?それとも、悪趣味な妖怪が化けた何かなの?」
アンはサモエに背を向けてぼぅっと立ち尽くして、月を眺めていた。サモエは地上から眺めた時にその背格好から、その立ち姿から、アンだと瞬時に分かった。今それが近くにあってその確信はより確実なものになった。アンがいる。もしくは、アンに化けた何かがいる。いずれにせよ、ありありとアンの姿が確かな形を持って目の前に立っている。生きているのか、化けているのか分からないながらも、それは確かにアンの形をしていた。
「覚えとるのは、火と、化けものと、小さくなっていくこの家で、目覚めたら、ここにおった」
アンはそう言った。サモエにとって今目の前にいるこれが、アンではないなどという可能性はほとんど消え失せていた。しかし、ほんの些細な科学的思考が、サモエにまだ疑う余裕を持たせていた。アンはすでに死んだのだという事実が目の前にアンがいるという事実と矛盾して、サモエの論理的思考は機能を失った。代わりにサモエの脳内には、今にも破裂しそうなくらい、たぶん黄色い汁がぶくぶくと充満している心地がした。サモエの身体はこの黄色い汁で飽和した。
「サモエ、ぼくはどうしたっていうんだろうか」
戸惑うアンは戸惑ったままだったが、胸に飛び込んできたサモエを抱え、その戸惑いを一時的に遅らせた。2人は月が雲に隠れ、また出てくるまでの時間、抱き合った。2人を隔てていたのはわずか二日であったが、その二日は絶対的な時間であった。2人の抱擁はその絶対的な二日という隔たりをじわりと溶かしていくように流れた。
「アンさん、、」
「サモエ、、こんばんは」
「ちょっと臭い、、」
「え、臭い?」
「ええ、臭い、腐りはじめている」
「あ、あぁ、なるほど」
「でもこんなに腐乱臭が嬉しいこともないでしょうね」
「嬉しいのかい?」
「ええ、だって、これであなたがアンさんだってことが分かる。アンさんは亡くなった、でも、亡くなったアンさんが今目の前で立って、話しているということね、亡くなったまま」
「そうか、ぼくは、死んだんだね、そして、死んだまま、ここにいるのか」
「そうね、そう考えるのが一番自然、だってアンさんの身体からは熱を感じない」
「そうか、そうなんだな、そうか」
「アンさん、死んでいても、嬉しい、また会えて」
「そうだね、ぼくも嬉しい、どれだけ時間が経っているのかも分からないけれど」
「アンさんが死んでから二日、アンさんがお寺に行ってから半日、だけどこの間で色んなことがあった。ワカがね、すごくすごく落ち込んでいて、それを見ていて私まで悲しんでちゃいけないって、家中箒を掃いたの、そしたらワカが私の強がりを見抜いてきたからちょっと頭にきちゃって、ケンカしちゃったの、ご飯も食べなかったの」
「そうか、それは迷惑をかけたね」
「いいえ、またこうして会えたのだから、それを直接伝えられたのだから、いいの、一人でね、あの歌を歌ってもなんだか辛気臭くってダメだったの」
「そう、たしかに、余計寂しくさせてしまったね」
二人はそれから色々な思い出を話した。二人で行った海岸が石の浜辺で、波が打ち寄せて引いていくのにあわせてコロコロとかわいい音色がしたこと、あたり一面に広がった青い花のこと、有名な作家たちが泊まった旅館のこと、雨の中で小さな傘に身を寄せあったこと、身体の調子が悪かった時に励まし合ったこと、そのどれもが二人を二人だけの世界に閉じ込めるのには十分だった。サモエは時おり、アンが死んでいること、その身体は腐りはじめていることを思い出しては、それを考えるのをどうにか止めた。今はそれを優先的に考えるのは違うはずだ、死んだアンが死んだままだが、たしかにそこにいるのであるから。
サモエはアンの手のひらにそっと自分の手のひらを重ねた。そしてアンがそれと気づかぬくらいの強さでサモエはぐっとの手の肉を押しつけた。そしてアンは微かに指を曲げて、サモエの親指をさすった。アンはそれまでつらつらと話していた言葉を止めて、代わりに細くて柔らかな息を吐いた。サモエはその吐息が唇と掠った音がアンの迷いを告げているように聞こえた。何に迷っているのかは分からないが、アンの吐息は迷っていた。その迷いはサモエが今まさに迷っていることと同じ迷いであるかもしれないが、サモエに確信は得られなかった。夜は夜明け前の最も暗い時間に差し掛かった。
「アンさんは、寒くない?」
「あ、そうだね、寒いよね、ついつい気づかずに話し込んでしまった」
「ううん、私は平気、アンさんは?」
「あぁ、俺は、そうだな、あまり寒くはないかな」
「そう、眠たくはない?」
「そうだね、そろそろ眠ろうか」
「ううん、私はずっと起きていたいの、今日は」
「でもいろいろ疲れたろ、よく休んだ方がいいよ」
「アンさんも、寝た方が、いいのかな、」
「とりあえず、横になってみようか」
そうして二人は屋根を降りようとした、しかし、アンは何故だか屋根から降りられなかった。降りようとしても、身体が言うことをきかないで、降りられない。屋根より下にはアンはいけないようだった。そして、日が射してきた頃もまたアンにとっては明るすぎたようだった。日の光はアンの身体を照らすにはあまりに過剰であった。日の光に触れると、アンはどうしょうもなく強い罪悪感に見舞われるので、仕方なくアンは屋根裏に隠れるようにして、日の光をしのいだ。
サモエはまた夜になったら会いに来ることを告げて、そろりそろりと屋根から降りて、布団を畳み、朝食の支度にとりかかった。サモエはごぼう、大根、人参を刻み、お味噌を溶かしながら考え事をしていた。アンは死んでいた、死んだままだが、サモエはアンを抱き、思出話をした。アンの身体はやはり死体のそれで、粘土のようでいて、少し臭った。アンはいつまであのままでいるのだろうか、もしアンの身体が腐りきってどろどろになってもアンはあのまま話したりするのだろうか。残された時間はやはりどうしようもなく有限で、まったくもって短いことが分かった。そもそもアンはどうして降ってきたのだろうか。カキヤに預けたアンの死体がそのままこちらにいるのなら、今ごろカキヤのところは騒ぎになっているだろうか。ワカに気づかれたら?アンが死体のまま生きて帰ってきたとでも言うのだろうか?サモエは遅れた混乱に気を持っていかれた。
ワカがそろそろ起きてくる、サモエは自分をどのように見せればよいか分からなくなった。ウキウキもしていられないだろう、ワカにとってサモエは夫を失ったばかりなのだから、悲しんでみせるべきだろうか、それとも、まだ悲しみを抑えていつもどおりに過ごそうとする強がりな姉であるべきだろうか。サモエはそうしているうちに朝食の支度を終え、台所でぼぅっと立っていた。今ごろアンはどうしているだろうか、人間の死体はどれくらいで腐りきってしまうのだろうか、自分の意識があるまま身体だけが腐っていくというのはどんな心地なのだろうか、怖いのだろうか、痛いのだろうか、悲しいのだろうか、アンは夜までの時間を何を考えて過ごすのだろうか。サモエは今にも屋根裏に上がってアンのそばにいてあげたい気持ちをパンパンに破裂しそうなほど抱えていた。
「姉さん、平気?」
ワカがいつのまにか台所を覗いていた。サモエはずっと一点を見つめて動かないでいたから、ワカは少し恐ろしくなって、そしてすぐに心配になって、声をかけた。ワカとサモエの間にはふわふわとした緊張が流れた。ワカは声をかけてすぐに「しまった」と思った。台所でいつものルーティンを終えて、ほんのわずかな空白の時間に姉は自分の身に起きた不幸を理解しようとしていたはずだ、それを自分の都合でまたしても冷や水をかけてしまった。ワカは若すぎる自分の精神を悔やんだ。姉はきっとすぐにまたよそゆきの人格を被って、ワカのことを安心させようとするに違いない。姉はいつもいつもそうやって困難をくぐってきた。母が死んだ時も、父が帰って来なくなった時も、姉の人柄でどうにかやってこれたのだ。ワカはサモエになるべく精神的なリソースを使わせたくなかった。しかしふとした瞬間に自分の願いとは裏腹に自動的に生じる姉への甘えが、ワカの罪の意識を重ねてきた。しかし、ワカがいつものように罪の意識に苛まれていたことは、その時だけは、洗い流された。サモエが一滴だけ涙をこぼしたからだった。サモエはぼぅっと立ち尽くしたまま、つつーっと涙をこぼした。ワカにとって母を亡くした時以来の姉の涙であった。この涙を皮切りに二人はそれぞれの事情で、それぞれの仕方で慌てふためいた。
「こ、これは、あの、あれなの、ごぼうを切ったからというか、ごぼうの気持ちになってみただけなの、ふと、そうした趣味があるのね、私には」
「あ、あの、悲しいよね、辛いよね、苦しいよね、痛いよね」
「そう、そうなの、きっとね、まさかこんな形でね、切られて、熱湯にね、放り投げられることになるとはと思うの」
「大丈夫、大丈夫、ワカがそばにいますからね」
「厳密に言えば泣いたのは、私じゃなくてごぼうなのね、つまりね、厳密に言えば、ごぼうなの」
「ううん、私嬉しいの、姉さんの人間性に触れられた気がして」
「あの、あくまでごぼうの気持ちになってみたってだけなの、これは、いい?何もないの、何も」
「大丈夫です、結構です、もう分かってますから」
「分からない、、、分からないはず!こんな気持ち!あ、ごぼうのね、気持ちが!」
「分かっていますから!どうしてそんなになるまで痩せ我慢を続けるの?!私だって血のつながった妹です、たまには姉さんだって妹の私に甘えたっていいはずです、それが家族ってものだと思うの、姉さんが弱みを見せられるいい頃合いだと思うの!」
「私は弱ってなんていません!いませんが!むしろいつも頼りなくて弱々しくてあなたに苦労ばかりかけてると思ってる!」
「この馬鹿畜生!姉さんはいつもこれだからいけない!」
「なによこのでこっぱげ!あなたが何の苦労もしないようにって汗をかいてきたこの私になんで馬鹿畜生なんてことがいえるの!?」
「馬鹿畜生も馬鹿畜生!姉さんは姉さんなの!母さんの代わりになんてならなくていいの!姉さんと私はほんの数年早く生まれたか遅く生まれたかの違いしかないじゃない!なのにまるで自分の腹を痛めたかのように私に接しないでよって言ってるの!」
「私がいつ母さんの代わりをしたの!私は母親の代わりだなんて思ってない、ただ家庭を守りたかっただけ!あなたと、私しかもういないんだから!私がなんとかするしかないじゃないの!」
「それがいけない!あぁそれがいけない!姉さんはもっと痛がるべき、泣くべきだと思うの!私に優しくなんかせずにもっと自分のボロボロな精神を労ってあげるべき!」
「なんであなたに私の精神のことなんて分かるの!それより私の肩こりとあかぎれをどうにかしてほしいものだわ!」
「もういい!もういい!そうやっていつまでも本当のことから目を背けてるといい!」
ワカは素早い手つきで自分の分の膳を整え、すたすたと居間へと向かった。サモエはワカへ申し訳ない気持ちと、半ば安心した気持ちになった。自分がワカの前でどんな人物でいたらよいのかが決まったからだ。そして同時にサモエには小さな決意が芽生えた。アンのことをワカに伝えようとサモエは思った。ワカに対して隠し事をしようだなんて、自分は姉失格である、ワカは自分に対していつも誠実で、いつも気にかけてくれている。それが煩わしい気遣いだと思っていたが、一人の独立した個人であるならばそう考えて当然だ、姉のことを気にするなと言い続けた自分はワカを子供扱いしていたに過ぎないのだ。家族なのに、姉なのに、ワカに対してお世話するばっかりで、自分のことを何も分かち合っていなかったではないか、自分のことしか考えていなかったのは何よりサモエ、お前自身だったのではないか?サモエは自問自答の末に腹が決まった。今日からワカとの新しい関係を築いて、そして、アンとの残されたわずかな時間を大切に過ごすのがよいことだとサモエには思われた。サモエはそうと決まればとワカとの朝食へと意気揚々と勇んだ。食べよう!そして味わおう!ごぼう、大根、人参を!しっかりと噛んで、そして栄養にするのだ。サモエには先程の迷いなど微塵もなく、ただ必要なことを必要な仕方で伝える準備ができていた。サモエは無駄のない動きでワカの前に座り、「いただきます」と言って、箸を持った。ワカはそんなサモエの様子を感じとったのか、はたまた「いただきます」と言ってから朝食に手をつけない様が奇妙に映ったのか、チラチラとサモエと手元を行き来した。
「、、、なに、どうしたの」
「これから、変なことを言うよ?」
「、、、うん、、うん」
「昨日の夜、したよね、大きな音が」
「した、、」
「そして私はそれをなんでもないって伝えたよね、あなたに」
「ええ、、」
「あれね、実を言うと、、、あの、ほんとに変なことを言うよ」
「、、、ええ、」
「あれはね、アンさんだったの」
「、、、アンさん?」
「そう、アンさんがね、降ってきたの、よく分からないけれど、空からね、降ってきたの、あなたは鹿って言ってたけれど、あれはね、アンさんだったの」
「、、、そう、そうなのね、あれはアンさんだったの」
「もっといぶかしむかと思った」
「もちろんまだ信じてないよ、見てないから、でもね、そこまでまっすぐな視線を私に向けたのはあの時以来ですから」
「、、、そう」
「あの時はいなくなった話だったけど、今日は帰ってきた話なのね、帰ってこないはずの人が」
「そういうことになるね」
「それで、落ちてきたアンさんはどうしたの?」
「今は屋根裏にいる」
「そう、、、」
「屋根より下には降りて来られないみたいで、あと日の光を浴びるとどうにも強い罪悪感に囚われてしまうみたいなの」
「帰ってきたとはいえ、元通りというわけではないのね」
「会いにいく?」
「、、、そうね」
ワカはサモエのあとに続いて屋根裏へと向かった。しんとしたほのかな暗がりはアンの存在を、醸し出すのには十分だった。しかし肝心のアンの姿が見えなかった。あるのは、母が嫁入り家具として持ってきていた小さな桐箪笥のみ。母が死んでからというのもこの桐箪笥の中に母の遺品を詰め込んで、処分もできず屋根裏に移したままもう何年もこのままだった。サモエはアンの姿が見えないことが不安になって、湿り気のある暗がりに向けて幾度かアンの名前を呼んだ。何度名前を呼ぼうともただ存在が暗喩されるのみで、アンが姿を現すことはなかった。その間もただ黙ってサモエの姿を眺めるだけのワカの視線が刺さる気もして、サモエたちは諦めて屋根裏を後にした。
「確かだったの、確かに死んだままアンさんはいたの、どうしたのだろう、昼には蜘蛛にでもなってしまうのかしら」
「わからないけれど、でも確かに何か、いることは感じた」
「えぇ、いたよね、感じたよね、姿こそ見えなかったけれど、こう、「いる」って感じ」
「間違いなく、私も感じました、アンさんが充満している感じでした、もわって、霧雨みたいに、こう、もわって」
「不思議なものね、昼には霞になって、夜には死体になるということ?」
「わからないけれど、姿が見えないけれど、あれは確実にアンさんの気配でした、だから、信じるよ、姉さんのこと」
「ありがとう、いい妹を持った、ありがたいありがたい」
「ねぇ教えて、アンさんと昨日なんの話をしたの」
「なんてこともない、思い出話、石の浜辺や、青いお花畑、大雨だった日のことや流行歌を歌った」
「そう、他には?アンさんはどうやって落ちてきたの?」
「アンさんもよく分かってなかったみたい、なんか火と化け物がどうとかって話をしてたけど、よくは覚えていないみたい」
「、、、、それって」
「え?」
「火車、、、?」
「火車、、、」
「火車。。。が」
「火車」
「火車が落っことしたんじゃないかしら」
「火車って、妖怪の?」
「そう、死体をあの世に持っていくっていう」
「それが、持って行く途中で、落とした?」
「そう、火と化け物と死体とが辻褄を合わせるなら、そういうことにならない?」
そんなことがあり得るのかとサモエは困惑した。さらに、妹とはいえ、こんなにも飲み込みが早いものなのかと困惑した。しかし、現段階でアンが死体のまま空から落ちてきたことを説明するのにそれ以外の論理を組み立てることはサモエにもワカにもできなかった。耳鳴りが小さく響く。サモエの精神が現実に引き裂かれていくその叫び声のように聞こえた。サモエは急激に眠たくなった。大きなあくびをして、へなへなと座り込んだ。ワカは「無理もないわ、家のことはやっておくから寝ていたら?」と言うので、サモエはそうすることにした。ワカが気遣って布団を敷いてくれたので、サモエは小さくお礼を言って寝巻きに着替えるのもそこそこに深く眠った。
ワカはサモエが眠ったのを確認して、朝食を食べた。一口ご飯を食べてはそこにお味噌汁を流し込んで飲み込んだ。ごぼうは少し固かったのでよく噛んだ。ワカはぐっすりと眠るサモエをぼんやりと眺めていた。そうしてぼんやりとした視線はぼんやりとした考えを滲ませた。もしかしたら、この家は呪われているのかもしれない。15年前に母が死に、父が飛んでからというもの、この家に祝福が訪れたのは最近の2年間だけであった。その2年間も、まるで後の不幸の味をより際立たせるかのように短く、喜び切ることも、味わい切ることもできぬままぷつりと切れた。それは鶴瓶の紐が切れるのようにして、生活のバランスが突然崩れて大切に汲んでいたものが一挙にこぼれていったようだ。かと思えば、まるで嫌味のように死者が戻ってきたらしい。しかも生き返ったわけではなく、幽霊というわけでもなく、死体のままだという。その死体は徐々に腐っていくだろう、というかとっくに腐り切っているのではないか。そう思うとワカは自分が腐乱臭にまみれているかのような心地がして、吐き気を覚えた。幽霊であった方がまだマシだ、牡丹灯籠のように、亡き恋人の元へ足繁く通ってついには衰弱して死んでいく、そうした怪談の方がまだ美しいではないか、自分に回ってきた怪談が、腐乱臭にまみれているだなんて、つくづく自分は運がない。果たして姉はどうなってしまうのだろうか、腐り切っていく夫の姿に耐えられるのだろうか。腹をくくるか、首をくくるかだなんて、姉はなんて不憫な人なんだ。そんなことばかりじゃないか、姉の人生は。そんな苦しみ、もう遠ざけてあげてほしいものだ。そうして朝食を完食したワカはいそいそと出掛ける支度を始めた。食器も洗わずに放り投げて、使命感に駆られたように手際よく身なりを整えて、家を出た。