[みらいけんアドベント参加12/7]ほりこーきの学び~オーバーリフレクション編
アドベントカレンダー書いていきます
おはようございます/こんにちは/こんばんは。ほりこーきです⭐
みらいけんによるアドベントカレンダーでバトンをつなぐ一人に選んでもらえて嬉しいです。人から頼まれてものを書くというのは中々良い心地がするし、何を書こうかなという想像がよく膨らみます。自分の意思ではなかなかやらないふりかえりの機会にもなりますし、ありがたい限りです。アリガタヤアリガタヤ。
ほりこーきの自己紹介
さて、このnoteで私のことを知る人もいるだろうからまず最初に自己紹介を書きます。
はじめまして、ほりこーきと申します。28歳の会社員です。戌年です。好きな食べ物はミニトマト、味付けのり、オムライスです。
愛知県尾張一宮市という名古屋のベッドタウンで生まれ育ち、都会でもないし田舎でもないあわいでアイデンティティーを形作りました。
2013年春に東京学芸大学に進学することになり、上京しました。そのため、ちょうど来年で上京10周年となります。パチパチ。修士課程を修了するまで、東京学芸大学を軸足にして国分寺市、小金井市、小平市にピボットステップを踏むように暮らしておりました(高校まではバスケ部でした)。
現在はリモートワークということもあり千葉県の流山市という人口増大著しい街で暮らしています。仕事は人材育成やワークショップデザインやインプロ(即興演劇)などをしております。
と、ここで「インプロ(即興演劇)」なる見慣れない言葉が出てまいりました。こちら、ほりこーきという人間をご紹介するにあたり避けられない言葉ですので、簡単に紹介したのちに本題へ入りましょう。
「インプロ(即興演劇)」とは即興で演劇をつくることを指します。何を隠そう修士課程まで研究対象としていたのはこのインプロなのです。
即興なので自分がどんな役をするのか、どんなことを言ったりやったりするのか、誰かと愛し合うのか、殺し合うのか分からない中でとにかく、なんとかしないといけないものです。最初の頃はただ楽しくてやってまいりましたが、やるうちにその思想やら即興という人間事象に興味がそそられ探求を続けてしまっている始末なのです。
もし、ご興味を持たれた方は機会があればぜひお話ししましょう。ここでは本題を忘れて書き続けてしまうので、この辺にして、本題に参りましょう。
では、本題へ入りましょう
今回のテーマは「2022年を振り返っての変化や成長を感じたことと、2023年へ向けて挑戦してみたいこと」ということです。最初に内容をドカンとまとめてしまいます。今年の私の学びはコミュニケーションに関わることで、それを一言で表現するとすれば「より遅く、より柔らかく、より敏感になる」ということでした。
2022年を振り返っての変化や成長を感じたこと
「より遅く、より柔らかく、より敏感になる」。この考えに至る前に私には強烈な自己批判が経験されました。とある事情でコミュニケーションに深く悩んでいた私は自分の前提を問い直していました。つまり、「私(=ほりこーき)」という人格システムはどういうアルゴリズムで動いているのかを自分で解読するという作業をしていたのだと思います。どのような人間も歴史的な現象であると考えた時に、私の考えや価値観、欲望といったものは何らかの歴史的・文化的・社会的なるものの影響関係の中で創発していると考えられます。そうしたファクターを自分自身でつまびらかにしていこうとしていたのであります。
この作業は現在進行形で引き続いているので、ここでその紹介をするのはむずかしいですし、この記事の読者の中で、ほりこーきという人格がどのように可能になっているかに興味がある人がいるとは思えませんので、文を少し急ぎましょう。
そうした作業の中で出てきた仮説をもとにあらゆるコミュニケーション的実験が行われました。その仮説とは、「私は速い/早いのではないか」、「私は硬い/堅いのではないか」、そして「私は感じていないのはないか」というものでした。
私は早い/速いのではないか→より遅く
最初にしたことは「ゆっくり歩いてみる」ということでした。私はよくつくばエクスプレスを使って秋葉原までいくのですが、つくばエクスプレスの改札はとても地下が深いのです。たくさんエスカレーターを登る必要があります。
大体の人たちが足早に上へ下へと向かっていきます。かくいう私もいかに早く改札やホームにたどり着けるかを競っていました。とはいえ対戦相手がいるわけでもないので一人相撲です。そこで、ふと、遅く歩いてみてもいいじゃないかという思いが沸いて、遅く歩いてみました。すると何が起きたか、たくさん抜かされるのです。しかも、「なんだこいつは」という一瞥も付いてきます。そしてなるほどと思いました。私は早く歩きたくて早く歩いているのではない、周りに合わせていただけなのだと!
これは大発見でした。私は歩いているのではなく、歩かされていた!なんということでしょう。そこで私は「ゆっくり歩くぞ!」と固く決意した上でゆっくり歩くことを心がけました。そうすると、自分の歩くときのバランスの取り方や、筋肉の動き、石階段の模様や人々の足跡や地下鉄の匂い、自分が考えていることを感じることができるようになっていきました。
ただ歩くだけ1つ取っても、今までのスピードは速すぎたんだなと思いました。速く歩いている時の私は歩いているというよりも身体を運んでいただけだったのです!
この考え方を歩くこと以外にも広げてみました。ゆっくり立つこと、ゆっくり座ること、ゆっくり噛むこと、ゆっくり飲むこと、お風呂上がりの身体をゆっくり拭くこと、日常における1つ1つの動作が自然と丁寧になっていき、その度に得られる知覚がゆたかになった気がします。
私は急ぎすぎているのかもしれない、速すぎるのかもしれない、その疑いをもって日常生活をゆっくり送ると、なんだか時間がたくさんあるように思えていきました。
私は固い/硬いのではないか→より柔らかく
少し抽象的なことを書きます。私はコミュニケーションにおいてぐいぐい行くタイプの人間です。ぐいぐいというオノマトペは、狭い通路を押し広げていくようなイメージをもたらします。圧力!って感じですね。
まるで開拓者よろしく道なき道を切り開いていくヒーローっぽさがあります。しかし、私はこのぐいぐい性に疑問を持ち始めました。たとえば、ぐいぐいタイプとぐいぐいタイプがコミュニケーション取るとどうなるでしょうか?マウンティング合戦がはじまります。「こっちの方が強いやろ~」ってよりぐいぐい性の強い方が弱い方を屈服させる、支配するという構図ができあがります。いざというときには必要かもしれませんが、これは相手を支配することしかコミュニケーション手段がないということを意味するのではないかと思ったのです。
そこで思ったのです。ぐいぐい行くために私は固く/硬くなろうとしていたのではないか、と。狭い通路を押し広げていくためには反発に耐えられる強度が必要です。だから、簡単には折れないし、ヒビも入らないし、どんな衝撃にもびくともしない存在になることを目指します。
しかし、コミュニケーションとは、ぐいぐいのような一方向的なものではなく、相互に浸透しあい、溶け合い、フィットして調和することの意味合いがあります。ガチガチのムチムチでは相手の踏みいる余地がなくなってしまいます。
通路を押し広げてこじ開けていくのではなく、その通路の形にフィットするような関わり方もあるのではないかと思い、柔らかさ/軟らかさを意識するようになりました。
具体的には、まず、声量を押さえるようにして、唇ではなく喉で発音するようにします。つまり、言葉通り、口の中にスペースをあけるのです。ここに他者が入り込む隙間ができます。これだけで結構心理的に柔らかくなります。会話の時間も空間を支配しないようになりますし、間も取りやすく、相手が話し出すスペースができました。
また、自分の身体を自分で優しく撫でます。これで物理的に柔らかくなります。ただ、このときに注意が必要なのが、痛くしないということで、なるべく自分の皮膚の厚みや筋肉の存在を感じながらそれを確かめるように少しずつ圧をかけていくということです。摩擦のかけすぎや、指先でゴシゴシするのではなく、手のひら全体で少しこそばゆくなるくらいには丁寧に撫でます。
こうしていくことで、他者に馴染む準備ができますし、引いては他者が私の中に入り込むことを受け入れていくことができます。侵入することばかりではなく、侵入されることの喜びを目指していきたいものです。
私は感じていないのではないか→より敏感に
ゆっくりと柔らかくなろうとすると、ちょいときまりの悪い感覚があることに気づきました。なんだか恥ずかしいような、無防備のような感じです。ある意味「こんなことしていいのかしらん」という惑いが生じるのです。
これはなんなのか、なぜこんなことを思うのか。
その時に私が考えたのはこんなことです。つまり、私は意図せずに「感覚を遮断しようとしている」のだ、と。ゆっくりして柔らかくあろうとすると、あらゆる物事が目に入ったり、風を感じたり、音を拾ったり、接触したりという感覚がぼわっと俎上に載せられます。世界から無数に働きかけられているという認識がガーっと押し寄せてくるのです。
それらの感覚にいちいち反応していたらキリがない。そんなことをしている暇があったらTo Doをこなせ!いつのまにか私はそうした価値観に囚われていたのかもしれません。たとえ何かを感じたとしても、必要最低限のリアクションしかしてはダメだとも言わんばかりに私の感覚認識は感じることを恐れ、そこに開かれることを拒否しているように思われました。
ふむ、まぁ、別にだからなんだと言うわけではありませんが!しかし!人々は日々「何か楽しいことがないだろうか」「毎日が平凡でつまらないなぁ」と思っているのではないかと仮定した時に、この感覚への開かれは最高の娯楽になります。風が背中を押す感覚、足が身体を支えている感覚、優しく肌を撫でた時のこそばゆい安心感、食べ物が食道を降りてゆく流れ、いつも使っているコップの模様、どこからか聞こえてくる日常の音色、ふとした時にこれらの感覚へと開かれることを覚えた私は、なんだか急いでしまう心を一寸落ち着ける術を得たように思えました。また、絵を描いたり、文字を書いたり、踊ったり、歌ったり、楽器を弾いたりという表現活動も、ただそれ自体が楽しいという時間を過ごせるようになったと思います。
なるべく、ただ、感じる、感じきる、それをするだけでも結構な意識と根気が必要だなと思います。
ポイントは声を出してみることです。「ふぅ~」とか「あぁ~」とか「おぉ~」とか声を出すことで感覚がハウリングする機能があります。コップをすべすべと撫でながら「おぉ、、」とつぶやく姿はきっと奇怪に見えることでしょう!ですが、しかし!そうした社会的な視線を恐れるからこそ、自分の感覚を犠牲にしているのです!あらゆるものに敏感に反応するからこそ得られる喜びと悦楽とがあると期待して臨むと、コップに触れるという日常動作でさえ楽しむことができます!なんと豊かなことでしょうか、と私なんかは思うのでした。
おわりに
さて、いかがでしたでしょうか?
私なりの学びを振り返ってみました、少し何を言ってるか分からなかったと思いますが、まぁゆっくりお茶でもしながらよければまた話しましょう。
来年の目標はひとまずは般若心経をそらで唱えられるようになることです!
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?