見出し画像

消耗

マサキがアクセスした先にいたのは彼女だった。そのサイトには明らかに彼女が写っている。マサキの見たことのない表情で、マサキの見たことのない姿で彼女が写っている。マサキは心底裏切られたような心地になって岩本町で乗り換えた。

きらびやかに色とりどりに発光する広告に映る全ての女性が彼女と重なって仕方がなかった。どれもこれもがマサキのことを笑っているように思えた。マサキは彼女を抱き寄せたこの身体が憎らしくなって、下唇をわざと少し噛んだ。マサキは許せなかった。理解のある男にはなれなかったことの情けなさと行き場のない怒りが今にもどこかへ向けられてしまうそうで怖かった。

マサキの目には全ての女性が汚らしく映った。一人の女との関係性の破綻が、全ての女の評価にまで広がっていくスピードは酒の回りより速い。一人の男がただの凶器に変わるのは容易い。マサキは一目散に家を目指した。今日はカレーの日だった。

マサキは視界が少しずつ白じんでいくことを感じた。しかしそれ以上に自分のこの身体がメリメリとえぐり潰されていくことに耐えることに精一杯だった。マサキは自分が弱い、自分が弱いと唱えながらも、強い衝動に支配されていた。靴音が夜道によく響いた。

「ただいま」

カレーの匂いがマサキの心を少し和ませた。ここには何の変わりもない生活がある。マサキが邪推したのが悪かった、知らなくてもよいことを知ろうとしたのが間違いだった。マサキは自分が何も知らなかったという設定で、おいしくカレーを食べ、また眠りこければ今日あった嫌なことなど過ぎ去ってしまうではないかと計算した。何より目の前の幸せの形を壊したくなかった。

「ちょうどできたとこだよ、間に合うか不安だったけど」

彼女はマサキを見て少し違和感を感じとった様子だったが、マサキが思い詰めることなど取り立てて珍しいことでもなかったので気づかぬふりをした。マサキは気づかれぬように少し深く呼吸をした。自分が忘れればいいだけの話である。マサキはもしもの時のために少しだけ殺意を取っておいた。

「ぼくも20時間に合うか心配だったけど、急いだから間に合った」

「ほんとだ、すごい汗、今日ちょっと蒸し暑かったもんね」

「そうだね、ちょっとすぐ着替えるよ」

「カレー、アツアツだけど、ちょっと冷ましてからにする?」

「いや、大丈夫、出来立てが食べたいから」

マサキは少しだけ平静を取り戻した。研修で学んだ、人の怒りは8秒程度しか持続しない、それだけのことだ、こちらが理性的であれば事足りる話だ。そうやって少し落ち着くとあのサイトの画面がフラッシュバックする。チラチラと火花を垂らして引火するかどうかを試している子供の目に晒されたようにこちらの心がざらついてくる。

リビングには二人分のカレーがきれいに盛り付けられていた。今日はカレーの日だ。二人の始まりもカレーから始まったから、今日は特別な日だ。

「いただきます!」

彼女があどけなければあどけないほどマサキの迷いは増幅する。マサキは気を紛らわそうとテレビをつけた。ニュースだ。行きつけの居酒屋で仲の良かった店員からのサービスを好意と受け取って執拗なメッセージを繰り返した挙句に逆上して殺してしまった男が捕まったらしい。何とも凄惨な事件であろうか、悲しいものだ、とマサキは思った。どうやら少ない貯金を切り崩してその女性に対して高価なプレゼントを贈り続けていたそうだ。生活よりも恋情を優先するのが時には人間らしくもあるが、行き着く先はどちらも地獄である。次に報じられたニュースは秋葉原のメンズエステが未成年を雇用していたことで摘発されたそうだ。

「おいし?」

「あ、うん、おいしいよ、ありがとう」

「ちょっと元気ない?」

「ん〜、そうだね、ちょっとないかも」

「私何かしちゃった?」

マサキは胸が苦しくなった。この胸のつっかえを取り出せば彼女を確実に傷つけることになってしまう。しかし、このまま違うことを憂鬱の原因として提示してみせたところでマサキはうまく嘘がつけないだろう。

「僕は、君にとって、何なんだろうか」

「やっぱり何かしちゃったのかな」

「そうじゃない、僕はどうやったらいいのかってことが分からないのです」

「どうやったら、、??」

「やっぱり、、なんだろ、なんか大切にされている感じがしないなって」

「ん、、??」

「いや、いいんだけどさ、君がいいなら、全然いいんだけどさ」

「絶対よさそうじゃなくない?」

「んー、そうかなぁ、僕はいいと思うけどな」

「何が?」

「ん?何が?」

「何がいいの?」

「君の好きなことをすることがだよ」

「んー、、、?」

マサキは内心もう満身創痍であった。すでにこの男に彼女の気持ちを感じ取り、必要な言葉を伝えるエネルギーも器量も残されていない。あるのはしなびた虚栄心と鬱屈した承認欲求であった。マサキはどうしてこんなにも自分のことを解ってくれないのかという怒りで満たされ始めた。と同時にむくむくと静かに欲情し始めた。いいではないか、マサキだってただの棒に成り下がる権利があるはずだ。

「エリ、、、」

そう言ってマサキはエリの唇を見つめ、そっと優しく肩に触れた。絹がするりと肌を滑るようにマサキの指先はエリの脚のはじまりへと向かう。

「マサキ、、(????????????)」

人語をなくしたマサキはもうすでに話の通じる相手ではなかった。エリにとってこの時間は上司との面談よりも早く過ぎ去ってほしい時間だった。はやく人間だった頃のマサキに会いたい。エリはマサキを救い出すためにどんな労働よりも一生懸命働いた。女が人でいられる時間はカレーが冷めるよりも短い。むくりと顔を覗かせたら、人である時間は終了だ。女を期待される時間がやってくる。的確に確実に期待した通りに擬態しなくてはいけない。それはそれなりの楽しみ方もエリは心得ていたつもりであったが、願わくば人間のまま、私のまま床に伏せっていたいなと瞳が薄くなる。

それにしてもマサキは先ほどから「くっ!」とか「ふっ!」とかしか言わないなとエリは思った。さては、我慢している?この後に及んで必要な分だけしか感じとらないようにしているのか?そんな貧相な音しか出さないから動きが仰々しくなるのだ。マサキが拒んでいるのは人間としての喜びであった。彼は努めて人間であろうとする身体反応を避けながらそれを刺激し続けている。エリは何だかマサキが大層哀れに思えてきて、マサキの上体をぐいっと引き寄せ耳を齧った。

「うわぁっ!」

マサキは耳が弱かった。彼の人間性がそこに集中している。一度チャネルが開かれた耳はマサキ自身の声も拾って快楽のハウリングを起こす。マサキは「ああう!」「あ、ひぃ!」「やぁぁあ」など情けのない音を出す。エリはマサキの声に重ねるように自らの声も重ねた。マサキは自分で操りきれない状況の中で負けた。

その日、エリは久しぶりに煙草をふかした。魂をすっぽ抜かれたように横たわるマサキを見下ろしながら、人生で最も働いた、という心地がした。そのうちにマサキはゆっくりとしかしはっきりとえづきはじめた。以下のマサキのセリフは全てを言い終わるまでにおよそ47分を要したと思ってほしい。なお、可読性への配慮のため言い淀みや言語にならない逡巡などは一部省略した。

「もうこうして何もかも忘れたままで眠りにつきたいと思った。エリ、君は素晴らしい女性だ。何ていうんだろう、僕は今まで暗い暗いバケツの底にへばりついていたカエルだった。昔ね、おじいちゃんが死んだ時、僕は泣かなかったんだ、脳の病気で、ずいぶんとグロテスクな最期だったそうだけどよく覚えてはいないんだ。覚えていることはと言えば涙するおばあちゃんを見ながら「ぼくがしっかりしなきゃ」と意気込んだことだ。僕はだから泣かなかったの。(沈黙)しかしね、そうして涙を流すまいと誓った心はずいぶんとはやく歳をとったという感じがするんだ。僕は何かと気がつくようになったんだ。父親や、母親が僕に何を求めているのかってことや、学校の先生や先輩がどうやったら喜んでくれるのかってこと。ずっとずっとみんなが期待する俺でいなきゃいけないんだって思った。そうじゃなくなっちゃったら俺はゴミ同然で、何の価値もなくて、面白味もなければカッコよくもないし、金を稼いでいるわけでもないし、センスがあるわけでもない、そうバレるのが、一番嫌だった。だから、俺は、(沈黙)僕は、頑張ってきたんだ。面白くなりたかったし、みんなから好かれたいし、特別な人でありたいなってそんな感じ。あぁずっとこんなこと喋っちゃってごめんね、なんか、わかんないけど、どうしても言っておかなきゃって気持ちがして、気持ち悪いよね、いや、でも聞いてほしいなってそう思って、何の面白いことも言えないけど、こんな俺がずっといたんだって、いたんだなぁって。何が言いたいかって言うと、こんな俺が、僕がいるんだなって思った時に、このままでいられるのかなってことが。たぶん、エリにも、もしかしたらこんな部分があるんじゃないかって思ってて、そう思った時に、(沈黙)もしかしたら、似たもの同士だから、こう、そう、受け止めあえるんじゃないか、そういう信頼関係が、大変かもしれないけどエリとなら作れる。って。そう、思えば家族とそういう信頼関係がなかったのかもなぁ。特にさ、母さんはさ、どこにでもいい顔する人だからさ、家族よりも世間の方が大事っていうかさ。母さんはいつも笑ってるんだけど、なんかそれが怖くて、怖い笑い方だったの。階段登ってくる足音はいつも強くて、早くて、それにビクビクしてて、いつだったかな、俺なんもしてなかったのに母さんにすごい叱られたことがあって、その日からなんかずっと空っぽで。一応なんか謝ってはくれたんだけど、でもなんか許せなくて。俺、僕がなんでって何をしたんだろうってずっと考えちゃって。あぁ何話してんだろ、こんなこと話そうって思ったことなかったし、ていうか絶対話たくないって思ってたのに。なんか変になったのかな?ごめん、楽しい・・・?」


エリの目はすっかり歳をとった。
マサキはエリを許すことにした。

いいなと思ったら応援しよう!