浅草、ベッド、宇宙飛行士
6月であった。くたびれたヒノキは雨水を吸い込み、若草は雨水に吸い付いた。
野枝は今年、19であった。山口の実家からエイヤと尻尾を巻くように上京したこ野枝にとって、東京はまるで宇宙そのものだった。
大学とは象牙の塔ではない。湿った木の枝である。近代の牢獄にて、教育という名の調教をその身に刻み、その身体を無い物とされてきた若者たちが、やはり近代の象牙の門をくぐった矢先、じとじととした肉を取り戻すのに時間はかからない。雨露に濡れた枝が乾くことを待つことはないのである。
野枝は芸事を心得たいと思い、軽やかな軋みを感じた浅草に足繁く通った。夕ぼらけた笑いの匂いに誘われて、暇さえあれば劇場にいた。いつしか劇場は野枝の宇宙になった。その通りにほのかにぼらけたカビ臭い座席から広がる熱々とした照明の中では埃までも自由だ。野枝は意識までもがひょうっと漂うその心地が好きだった。
あまり時間はいらなかった。野枝は「まほろば」というお笑いコンビについていった。『まほろば』の笑いは野枝の身体をするり、はらりとかすりながら浮き足立つ。内臓が重力を忘れ、野枝の身体ごとその意識をおいてけぼりにしてしまう。野枝はふぅっと、飛んだ。『まほろば』の笑いはボケの墨とツッコミの真矢の量子論的合一で成り立っているというのが野枝の見立てだ。野枝の宇宙は『まほろば』になっていった。
浅草の喫茶店はナポリタンが多い、野枝には食べきれないのでいつもカレーライスを食べた。なんだか浮かばれない空模様を眺めながら野枝は、
「花曇りだねぇい」
とつぶやくほどには何事かを心得始めていた。大学の学期末レポートの計画を練るという名目で喫茶『JOY』にやってきた野枝はただソワレまでの埋め合わせに興じているに過ぎない。こんな手の込んだ芝居の一つでもできなけりゃ大学生は務まらないのである。洒落た筆記具を扱うポップアップストアにて友達付き合いで買った予定帳を広げた。数刻後にはボールペンのベッドになる。8月に“帰省”とだけ書かれた予定帳の上に転がるボールペンは野枝を少しばかり内省的にさせた。千歳烏山のオートロック付きマンションの7畳間で私は毎日こんな風に寝転がっているのか。
野枝のふわふわした淀みは、聞き慣れた声で澄み渡った。
「はい、すみません、はい、来月には、必ず、はい、えっと、27日でいいですか、本当ですか、あ、ありがとうございます、はい、今書くもの出すので、はい、、、」
今思えばそこにたしかに宇宙はなかった。あれはたしかに宇宙にいない宇宙飛行士だった。重力に押しつけられた、パツパツのお肉だ。野枝は残り一口のカレーライスをかき込んだ。寝ていたペンを起こし、今日の日づけに“ソワレ”と書き込んだ。花曇りは、蜜を降らせた。
墨は野枝のカレーライスを美味しそうだと思った。野枝が墨の方を向き直った時に、お腹が鳴った。ひどく身体が近く感じた。野枝が会釈をするのにあわせて陰った時、それは劇場を広げた。いつもわずかな視界の中にいたあの子だと墨は分かった。口座番号をメモしたノートをさっとしまい、会釈を返した。陰った顔は花びらの隙間から射し込んだ光を墨に届けた。そして、お水のおかわりを告げた。
「そう、フロイトのコントはユングを読みながら書いたんだ」
「だから最後にフロイトは同じ答えにたどり着くんですね」
「そう!びっくりした、そんなこと言われたの初めて」
「分かってるからみんな笑ってるんじゃないんですか?」
「え?」
「え・・・・?」
「あ、いや、ううん、ありがとう、笑ってくれて」
「お二人の笑いは量子論的合一だというのが私の説なんですが、」
「え、なに、それ」
二人の時間は永遠に延びた。花曇りの蜜は二人をねとねと包んだかと思えば、粘液の心地を覚えた。湿った町は千歳烏山にその道を歪めた。墨は優しかったが自分のことをよく分かっていなかった。慣性のままに雨露は室内を曇らせた。
「木登りはマスターベーションでしょ?」
「ほんとにそう思う?」
「わからないでしょ、やっぱり」
「わからないよ」
「あれ、悩んでる」
「ううん、考えてる」
「そっか、自由にさせてあげるよ」
「ありがと」
6月であった。くたびれたヒノキは雨水を吸い込み、若草は雨水に吸い付いた。
野枝は今年、19であった。山口の実家からエイヤと尻尾を巻くように上京したこ野枝にとって、東京はまるで宇宙そのものだった。
その日、その時に、野枝は宇宙服を脱いだ。