わたしも、10年前くらいに「入れる人がいないなら白票でいいから投票に行こう」と伝えたことがある。今はそんなことを言える余裕が無い。
昨夜、何気にテレ朝の新番組?有働Times見てたら、白票は抗議の意味で有効だとか、投票したことない若い人は投票所ってこんなふうになってるのか、投票箱はこんなんだとかわかるのでいい、みたいなこと言ってたコメンテーターいたけど、
— Hiromi1961 (@Hiromi19611) October 20, 2024
白票なんて、投票箱へのゴミの投げ入れみたいなもんで意味ない。
「誰に入れたらいいかわからないし、誰に入れても同じだから投票に行かない」というのは、結果的に「当選した人に入れたのと同じこと」なのだけど、投票していなければその「無責任さ」に気付くことは無い。
「投票へ行きたい、でも誰に入れたらいいかわからない、結局行かずに終わる」として、いつまでも投票に行かないくらいなら、まずは白票でいいから入れに行こう、どうせただの委任票になるのなら、せめて本人の「投票に行った」という実績を形にする方が将来に向けて良いと思っていた。
その時に「でも白票なんか入れて意味あるんですか?」と聞かれたので、確かに「白票も沢山あれば、投票したい人がいないという意思表示になる」と言いました。詭弁であったことは間違いないです。でもさ、「白票入れることに意味は無いけど白票入れに行きなよ」って言って、行くかな??
白票を入れに行かせたいわけではないし、もちろん、「自分は白票を入れることで社会参加してる!」と胸を張る人になって、ずっと白票入れ続ける可能性もあるとおもう。でもそれって、ずっと投票に行かず、政治や社会に無関心無責任で居続けるのと、変わらないってことでしょ。だったら取り敢えず投票行く方が良くないか?
結局理想論ですけど、わざわざ投票に行って白票投じ続けることが「ほんとうに意味があるかな?」「もっとこの一票を有効に使いたい」って考えるようになる可能性にかけたかったんだよね。
一度も投票に行ったことがない人にとっては、投票に行くことそのものと、誰かを選んで票を投じるという、身体的なハードルと心理的なハードルがあって、その心理的ハードルを一旦外して、物理的なハードルを超えることで、次から心理的ハードルを超える力を持てるかもしれないじゃん。
まして昨今、自分が選んだ人が失敗すると自分も一緒に失敗したような気持ちになりやすく、そのリスクを冒すくらいなら誰も選ばない方がマシみたいな風潮もある中で「落としたい人の対抗馬に入れる」って、だいぶ難易度高くない?鼻摘んで○○に入れるって、普段投票してる人にとってもけっこうストレスじゃない??
当時は、実際、「白票でも意味があると思えたら投票に行ってみようという気持ちになりました」と言われて、もちろん後ろめたさはあったけど、とにかくスタートラインに誘導できたと信じていた。
でも、自民支持のフォロワーさんが横失で「白票に意味なんかありません、投票に行くからには必ず誰かに入れましょう」と言ってきて、質問者は「もう少し考えてみます」で話は終わってしまい、その人が投票に行ったかどうかはわからない。
とにかく、当時のわたしには、有効票かどうかとかより、「投票に当たり前に行く」ことのほうが大事だった。
けど、今言われてる白票誘導、白票推進はそういう次元ではないし、今回の選挙はそんな悠長なことを言ってる場合でも無い。ただ、過去に「白票でいいから投票行こう!」と呼びかけていたのは事実なので、自分がしていたことは確かに良くなかった、というもやもやした気持ちが真っ先に出て、なかなか…この話題にうまく触れられない。
そして、参政権を勝ち取った過去の方々に、申し訳なく思うと同時に、だからって諦めて謝って終わりにしてはならない、あの人たちが今を作ったように、わたしたちが未来をつくるのだという気持ちで、歯を食いしばっている。
日本は民主主義発展途上国。真の民主主義に少しでも近付ける努力を、過去に白票誘導したからこそ、それ以上の投票呼びかけを頑張るしかないよな、と思っている。
国民が諦め切るのをニヤニヤ待ってるチンピラに負けてたまるか。