祈りの山 ~前篇~
静かに手を合わせ、祈る。
遠い世界へ旅立っていった故人を想い、未だ苦しみや悲しみを抱えて生きる人々を想い、そして病と闘う彼女の父を想い、私は祈った。
心を無にして。
遠くにかすむ富士を望みながら。
隣で手を合わせる僧侶の念仏が、遠くに響き渡る。
自分の身長を足してちょうど3,000mを越える剱岳の頂は、太陽の光に満ち溢れていた。
霊峰剱の山の声、諸行無常の響きあり。
2011年。
この年、日本はこれまで経験したことのない未曾有の震災に直面した。
3月11日に起こった東日本大震災である。
詳細をここに記すまでもないが、その悲惨さは未だ鮮烈に私たちの脳裏に深く刻み込まれている。
8月2日、私は同僚の先生と仙台に来ていた。
仙台で行われる初任者研修会のためである。
初任者研修会とは、その年に採用された新任の教員を対象にした教員のための研修会である。
私たちはすでに初任者ではなかったのだが、もろもろの事情でこの年に受けることになった。
震災の影響で当初は開催地が変更になるかも、という話だったが、無事仙台で開催されることとなった。
同僚の先生とは、仙台に来たからには必ず石巻に行こう、と話をしていた。
レンタカーで二人、石巻に入る。
地震と津波で消えた街並み、鼻の奥にへばりつくような異臭、そしてあちこちに散乱した家族の欠片・・・。
基礎だけになってしまった住宅街の片隅では、幾人かの僧侶がその場で見つかったであろう故人の霊を弔っていた。
目を覆いたくなるような惨状は、想像以上であった。
幼い頃、広島の原爆資料館で見た衝撃的な街の景色が、現実のものとして目の前に存在しているかのような錯覚に陥る。
平和慣れした世代には、到底受け入れがたい景色がそこに広がっていた。
ほんの数ヶ月前まで、私たちと同じように何事もなく普通に暮らしていたであろう家庭の営みが、3.11を境に完全に消滅していた。
「・・・酷い」
2人とも、この言葉しか出てこない。
あまりにも辛くて、2人とも長くその場に留まることができなかった。
「海、見に行こうか・・・」
津波に破壊された海浜公園の跡地で、2人は終始無言で海を見つめた。
海は穏やかだった。
これがすべてを飲み込み、破壊の限りを尽くしたとは信じがたい。
波の優しさが、水平線の美しさが、逆に残酷に感じられた。
漂着した幾多の残骸と白い砂浜、
そして青い大洋。
どこから来るのか分からない胸を激しく突くような憤りと悲しみが、波間を渡るカモメの鳴き声と共鳴していた。
仙台にいる間、僕にとってもうひとつショッキングな出来事があった。
日本を代表するプロサッカー選手、松田直樹の死である。
※2008年、鹿島にて筆者撮影
個人的に大好きなサッカー選手だった。
日本代表で2002年日韓W杯にも出場した彼のプレースタイルは、常に男らしく、荒々しく、そしてまっすぐだった。
そんな彼を見るために、所属する横浜Fマリノスの試合を、年に一度は津軽海峡を越えて見に行っていた。
2010年末、Fマリノスから戦力外通告を受けて、今期からJFLのサッカークラブ(翌2012年J2に昇格、そして2014年遂にJ1に昇格)、松本山雅FCに所属している彼を一目見たくて、8月7日にホームの長野県松本市で行われる試合を見に行くつもりだったのだ。
そんな矢先の訃報だった・・・。
仙台でのダブルショックを引きずったまま札幌に戻った私は、次の旅のパッキングを済ませ、再び北海道を離れた。
2度目のアルプス遠征である。
今回の目的は、2つ。
剱岳登頂を含む立山縦走と表銀座縦走である。
立山は、北アルプス北部の立山連峰に位置する山で、雄山(おやま、標高3,003m)、大汝山(おおなんじやま、標高3,015m )、富士ノ折立(ふじのおりたて、標高2,999m)の3つの峰の総称である。
したがって立山連峰に立山と称する単独峰は存在しない。
私はてっきり、立山という山だと思っていた。
立山は室堂・地獄谷・弥陀ヶ原といった立山一体を含む地理上の意味と、立山信仰や遥拝登山など信仰上の意味を持った山域を表すそうだ。
立山信仰を紐解くと、古くは701年(大宝元年)に佐伯有頼(慈興上人)が開山したとされており、雄山山頂には、びっくりするほど立派な雄山神社本宮がある。
また、平安時代には、立山を極楽、地獄谷を地獄、剱岳を針の山として、日本中の死者は立山の地獄に落ちると考えられていた。
そうした思想から修験者以外でも登拝する人が多くなり、特に1500年以降は、立山に信仰登山する人が増えたとされている。
現在では日本三霊山のひとつとして、山岳信仰のメッカとなっている。
そして、誰もが一度はその名を耳にしたことであるだろう、日本有数の尖峰である剱岳は、そんな立山連峰に属している標高2,999mの山である。
中部山岳国立公園内にあり、富山県の上市町と立山町にまたがる。
氷食尖峰と呼ばれるその厳しい山容は、終氷期に発達した氷河に削り取られ創られた。
北東には「窓」と呼ばれる懸垂氷食谷が発達し、「三ノ窓」と「小窓」の両谷には、日本では数少ない氷河がある。
また剱岳も、古くから立山信仰の対象であり、「針山地獄」とされ、立山連峰の他の頂から参拝する山として、登ることが許されなかった。
また立山修験と呼ばれる山岳信仰においても、神体として信仰を集めてきた。
明確な記録に残る初登頂は1907年とされているが、映画「剱岳 点の記」でも描かれていたように、当時の陸軍測量部が初登頂した際に、山頂に錆び付いた鉄剣と銅製の錫杖を発見したことから、それ以前に登頂した修験者がいたとされている。
剱岳は、一般ルートである別山尾根ルートが、岩稜伝いの鎖場やハシゴを使った行程になることで、新田次郎氏の著書「剱岳 〈点の記〉」でも、日本国内で一般登山者が登る山のうちでは危険度の最も高い山と記されている。
有名な難所としてカニのヨコバイ・カニのタテバイと呼ばれる鎖場がある。
これまでにも数多くのクライマーが、その岩場や冬の剱岳で命を落としている。
今回は8月8日から12日までの5日間で、剱岳と雄山・浄土山・別山といった立山を巡る縦走と、さらに表銀座と呼ばれる後立山連峰の縦走をすることにした。
扇沢を基点にまず立山黒部アルペンルートで室堂へ、そこから劔岳と立山を縦走。次に、扇沢から柏原新道を利用して爺ヶ岳・鹿島槍ヶ岳・五竜岳・唐松岳と縦走していくプランに決めた。
8月6日、飛行機で羽田へ。
今回の山行の前にやるべきこと。
それは、いちファンとして松田選手に別れの挨拶をすること。
パンパンに詰め込まれた40ℓのザックを背負って、羽田から横浜へ直行し、所属していた横浜Fマリノスの練習場に設置された献花台にて、故人を偲び合掌。
多くの人が献花に訪れていた。
2時間待って渡した花は、まだ別れの挨拶にはならず。
翌8月7日、長野県松本市のバス停に降り立った僕は、そこから松本平広域公園総合球技場「アルウィン」へと向かう。
雷鳴が鳴り響くスタジアムで、背番号3番のユニフォームを着た多くのサポーターと一緒にそのときを待った。
松本山雅VS佐川SHIGAの一戦である。
神妙な面持ちの山雅イレブンと相手選手、そして審判団がピッチの中央で円を描き、その中央に故人のユニフォームが置かれた。
深緑のユニフォームがピッチの緑に吸い込まれていくようで、芝生のグラウンドに倒れた故人の状況と重なった。
試合は、終始気合が空回り続けた山雅が敗れた。
マーツダナオキ、オレタチノマツダナオキ、
コノマチト、イツマデモ、ドコマデモー
鳴り止まない松田直樹のチャント(応援歌)を後にして、その夜は原口さんのお宅へお邪魔した。
原口さんは、前回の北アルプス縦走で知り合った安曇野の林檎農園の気さくなお兄さんである。
図々しくも事前に郵送しておいた60ℓのザックを受け取った。
夕食はお弁当。
近所に雷が落ちたらしく、「停電で何も出来なかったから・・・」と言って、買っておいてくれたのだ。
夕食後、彼の農園で穫れた林檎で作ったスパークリングワインをしこたま頂いた。
翌日からの縦走登山の準備をして床に就いた。
つづく
R.I.P NAOKI MATSUDA #FOREVER3
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