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偶然が減った世界

2020_04_10

初めてちゃんとzoomのみをした。
ざっくり振り返ると、zoomで遊んでたって感じかな。
距離がフラットになる、参加者全員の状態がフラットになる、というのは確かに感じた。
同時に、そこに確かに2人が同じ空間にいる、ということも強く感じた。
zoomの会話は映画ぽいと思ったし、演劇にはなれないなとも思った。

距離がフラットというのは、どこの部屋も同じようで、多様性が低いからだとも言えるかもしれない。
部屋紹介のついでに窓を開けて外を見せてくれた時に、初めて、それぞれの確かな距離を感じた。

これは、背景の均質という近代化?が産んだ距離のフラット差とも言えるし、
窓からの景色からでしか、そことこことの距離を感じられないのだとしたら、
建築の内側はいかにその場所らしさを生み出せるのか。
最近は建築を周囲との関係とばかり考えすぎて、中は結局そんな差異がない、窓からの景色の差異、中で行われていることの差異でしかないんじゃないかという疑問とも繋がる。
中だけやってても別に面白くはないんだけどね。
昼間だったら違ったのかも。

あまり会話的なものが多くなかったのは、
⑴前回から3週間しか経っておらず、自粛の中で事件が全然起きない
⑵常に全員がフラットに参加しており、会話のサークルが一つしか形成できないので、全員が共有できる話題になりがち、
ということが考えられる。

前後するが、⑵は、やはり今後講義をやったりするなら、どう全体が面白い状態を作れるかは、考えなくてはならない、
誰かにフォーカスすることはできるが、同時多発はできない。

⑴は、空間の必要性が現れているところだなと感じた。
皆がテレワークをし始めて、実空間の必要性が問われていているが、
やっぱりそれが出会いと濃い実体験なのかなと。
テレのみは、示し合わせた人としか飲めない、偶然そこにいた人を誘えないし、
隣で飲んでいるうるさい団体もいない。
家にいたら新しい出会いは何も産めない、全てが必然のもとにしか現れない。
外、広く言って公共が担えることがそれなのかなと思った。
昔、課題で、新しい公共とは、偶然性を提供することだ、と言ったけれど、
その価値が今ひしひしと現れているように感じる。

DXがどれだけ進んでも、進んだからこそ残るのは濃い実体験という話はあるけれど、
それと、建築は最終的にほとんどテレにできたとしても、模型が必要だと、僕は思うこと、
加えて、実空間は偶然性の為にあるといことはとても密接な関係にあると思う。

ああ、なんか最後つまらんな、適当に書いたからだな、
ちゃんと考えられてない。
もう少し考えよう。


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