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これから。

 しばらく文章を書くことから遠ざかっていた。そう書いてから極めて事務的なメールはいくつも書いたことを思い出したが、これは私の中では文章には含まれないらしいと気がついた。
 文章を読むことからも、少し距離を置いた。小説も、評論も、史料も、あらゆる文章を読まなかった。それでも当たり前に世界は回っていて、そして残念なことに、私も回ることが出来てしまうのだった。

 その代わりに、音楽をたくさん聴いた。部屋の中で、車の中で。スピーカーから、ヘッドホンをしながら。誰かが歌ったり、私が歌ったり。なるべく意味を考えないようにして、でも浴びるように音楽を流していた。
 他には映画を観た。借りてきたDVDを、返却期限に追われながら、夜を縮めて何本もまとめて観た。たまたまやっていた昔観たことのある映画を、作業をしながら、それを途中で放り出してまで観た。

 寒気を厭わず、よく出かけた一月半でもあった。夜の展望台にのぼってみたくなり、外灯の少ない町外れの山奥にある、バブル期特有の無駄に凝った意匠の寂し気な立ちんぼを、夜な夜な訪ねてみたりした。誰もいないのをいいことに手摺に腰掛けると、濃度の高い闇の中空に浮かんでいるような気がしてとても面白いものだった。
 夕暮れの美しい日には水辺を目指した。特に、年が暮れるに従って空も水も澄んでいき、波立つ絹のように水面が、橙や黄昏の色に素直に染まる様子を飽きずに眺めた。

 本当に、まるで文章を読まずに過ごした。例えば新聞や、仕事上必要のある文章すらろくに頭に入れなかった。それで世界はすんなり回った。
 回る世界の中で、回らない頭を抱えて、それでも日常を回していく自分を俯瞰する。自我を失った肉の塊、不気味なマリオネットがおぞましく回転する。その手足についたピアノ線で、首をグルグルに縛って吊るしてやりたい気持ちになる。
 なんでこんな気持ちになるのだろう。それがまるでわからない。食事をきちんと摂って、しっかり眠り、家事はきっちりとする。整った部屋の中で、私はマリオネットを様々な方法で殺すことばかり考えていた。

 年が明けて間もない頃、誕生日を迎えた。日付が変わった頃、数人から祝いのメッセージが届いた。誕生日らしさがあったのはそこまでで、私はその日を引っ越しの準備に全て費やした。山ほどある本を段ボールに詰めて、それが山のようになっていくのを眺めた。詰め込みながら、一冊も開いてみなかったなと気がつく。前に引っ越した時には、それで準備が遅れたものだった。何かが死んだな、そう思った。
 梱包を終えた段ボールの中に、バラバラになった血濡れの死体が詰め込まれているところを想像する。これを再び開ける時、虚ろな目をしたそれと目が合うことだろう。
 それから、どうするだろうか。これから、どうしようか。堂々巡りの思考の中で、私はマリオットを殺し続けた。

本、映画、音楽など、数々の先達への授業料とし、芸の肥やしといたします。