可能性をお断りしないように飛び込むトライアスロン
悲しいことがあった夜、しんみりした気持ちで心落ち着くMVに浸っていたら、
チャララチャララチャラララ〜ン♪♪ お風呂が沸きました!!!
とまぁまぁデカめにアナウンスされて脳が覚めた。気分との差がありすぎて、アナウンスの人格が突然陽気になったのかと思った。
この「日常が悲しみをぶっ壊してくれる感」が可笑しくてありがたくて、ちょっと笑ってしまった。
人間は不憫な姿が愛おしい。
若林さんや又吉さんならこの感じを滑稽に愛しく書くのかなと思ったりした。
どんなに惨めな目にあっても、それを愛おしさをもってユーモアに昇華してくれると海底から丸ごとサルベージして救われた気分になる。
救われた体験は昇華してくれた人を師匠とお呼びすることに匹敵する。
そういう「心の師匠」がいるのは、本当に嬉しい。
-- -- -- --
嫌なことを「嫌だ」と言っていいんだと、誰も教えてくれなかった。
先日、そんな言葉がふと頭をよぎった。
私が嫌と言ったら人から嫌われると思っていた。
いやそれは違うか。私が例え嫌なことを嫌だと言っても母は愛してくれただろうし、歴代友人はいただろう。
「誰かが許可したことならやってもいい」という思考回路は、おそらく昔の父の態度が関係している。
しかし、同じ家で育った姉2人ははっきりと自分の意思を示す人間だ。
そう、だから、
許していなかったのは、他ならぬ自分なのだ。
なんてこった。
自分で自分の入り口を狭めて、出口を塞いで、一生懸命守っているのに傷だらけだったあの日々は、全てセルフプロデュースだったらしい。
自己プロデュースがヘタすぎた。
***
本でもDVDでも、「これは触れてみたい作品だ」と思って購入してから見るまでの期間が全然わからない。
購入してすぐ見ることは稀で、だいたい存在はずっと認識したまま軽く数年間大切に本棚に入っている。
ある日突然「今だ」という時が来て穴があくほど見る。
たぶん本やディスクの方もびっくりしている。
2021年の冬に購入したライブDVDをずっと本棚で温めていた。
先日、さぁ寝るかと思った瞬間に「あっ今だ」となって初めて再生した。
東京事変の『珍プレー好プレー』、目と耳から入ってくる情報がとにかく体温を上げてきた。正座したり立ち上がったりで忙しかった。
恐ろしいほどの高い技術が5人分、さも当たり前のように目の前に存在していた。さらっとやってのける一挙手一投足に目が離せなくて目が乾く。
センスという言葉が色んなフォントで突きつけられる。
形容する言葉を私は持っていない。かっこいいに尽きる。
私は関ジャムを思い出していた。
King Gnuの常田大希さんを紐解く回だった。
常田さんは昔バンドメンバーに「東京事変の能動的三分間って曲知ってる?」と聞き、当たり前だろ!俺コピーもしてるよと言われたら「じゃあなんでこのクオリティのものをもっと出そうとしないんだ。あれが良いと感じてるのなら、出せるように考えろ。」と言ったらしい。
言われた側のメンバー:新井さんがそれを語り、海賊のような言い方に現場が爆笑していた。常田さんは照れていた。
新井さんは言う。
「(東京事変への)リスペクトがない訳では全くなくて、作品として良い悪いを本当にフラットに見ていて、こちらに何が足りてないかっていう目線がないと出ない言葉だから当時衝撃を受けた。」
「大希のディレクションがわがままに聞こえることはない。大希がこうしたいからじゃなく、作品の視点から言う言葉だから。」
新井さんの品のある言葉遣いと捉え方に惚れそうになった。
クラシックの中でも専門性の高い世界にいた常田さん。中学・高校の文化祭で自分がいいと思った音楽を披露して盛り上がらなかった時の心に刺さったトゲを抜くため、サザンやミスチルを聞いて大衆を研究したそうだ。「コミュニケーションを取りに行こうと思った」と照れながら話す。自分が番組に取り上げられていることが恥ずかしくて、サングラスが取れないと言っていた。
こんなにかわいい人だったんスか。見た目で判断していた自分を恥じる。
理想に近づくための変態レベルの努力と総合的な芸術プロデュースへのしつこさ、その脳みそを持ちながら、一緒に仕事をしてくれた方々にきちんとギャラを払いたいという理由で売れたいと思い、大衆とコミュニケーションを取ろうとする姿に感銘を受けた。
何かを「素敵だ」と感じたとして、「こうなりたい」と思うかどうか。
「こうなりたい」と思ったとして、「なれる」と信じられるかどうか。
「なるための分析と努力」を続けられるかどうか。
孤独に偏らず、客観的に捉えて世とのコミュニケーションを取れるかどうか。
人を信じられるかどうか。
それを、心から楽しめるかどうか。
途方もないことに思える。
地獄のような感情の道のりに見える。
それでも、きっと可能性はある。この自分にも。
-- -- -- -- -- --
「自分はこういう人間だから」
「それは自分に似合わないから」
「過去にそれをしたら酷い目にあったから」
「どうせわかってもらえないと思うけど」
そうやって狭く狭くした自分の部屋に閉じこもることは、心地がよかった。
それが必要な時期ももちろんあった。
でもずっと自分を否定していたから、辛かった。
自分を否定し続けていると、それが日常になる。
目の前に差し出された可能性はハナから自分のものではないと思ってるので、可能性だと感じない。
暗い洞窟に目が慣れると、暗闇の中で過ごす人たちがとてもよく見えるようになる。
仲間意識が芽生え、さらに洞窟仲間を引き寄せる。
逆に、外の世界は眩しすぎて本当によく見えないのだ。
自分が洞窟から出ていい生き物だと思っていなかったので、外はずっと眩しいままだった。
変わりたかった。でも変え方がわからなかった。
もがいて環境を何度も変えたけれど、自分が変わっていないのでどこに行っても同じことが起こった。
ここ数ヶ月で、自分に合う変え方がほんの少し見えてきた。
外は相変わらず眩しい。でも、自分が外に出てもいい生き物なんだと気づかせてもらった。
そう思う度に、何度でも新鮮にびっくりする。
*
いかんせん洞窟の生活が長かったので、外に出るには今までと全く別の筋肉を鍛えなければいけない。
外の方々(太陽の元にいて自然に呼吸ができる方々)にとっては当たり前の所作も、私にとってはトライアスロンだ。
人の機嫌を取るための、失礼な努力は捨てた。
違いを尊重して楽しむための努力をしたい。
そう、トライアスロンだ。
目の前の可能性を、お断りしないように。