コカト

15歳の時から秋葉原と絡み続けて30数年。アラフィフおじさんです。 世の中はバブル崩壊…

コカト

15歳の時から秋葉原と絡み続けて30数年。アラフィフおじさんです。 世の中はバブル崩壊後しても、時代の波に常に乗り続け発展してきた秋葉原を客観的に眺めてきました。 いわゆるオタクと言うほど深い趣味がなく、内容がゆるくなりがちで恐縮していますが、お付き合いいただけると幸いです。

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  • アキバゆるい四半世紀

最近の記事

【番外編】ワクチン2回目接種直後にコロナ発症してしまった話し。

2021年7月29日現在、私はコロナを発症し療養中です。しかも2回目のワクチンを接種した当日に発症してしまいました、都内在住・40代・男性です。 周りの同年代の人と比べて早めに接種できたほうでしたし、感染対策にはそれなりに気をつけていたのに、結局新型コロナウイルス感染症を発症してしまい少々悔しい気持ちでいます。 自分と同じような状況の人をネットで検索しましたが、私の検索が上手くないのか見つかりませんでしたので、自分用のメモを兼ねてここでお話ししていこうと思います。 経緯 7

    • アキデパのきじ丼・ファニーのミートソース〜秋葉原飲食事情

      秋葉原には当時圧倒的に飲食店が少なく、バイトのお昼休憩の時に何を食べるのかいつも悩ましく思っていました。 コンビニはまったくと言っていいほど無く、ファーストフードはミスタードーナツくらい。秋葉原グルメ記事で老舗的に話題になるお店は、逆に言うとそれしかお店がなかったので、結果的に有名になったと個人的に思っています。もちろん美味しかったし、今となっては懐かしい味でもあります。 その中でも懐かしい味だったお店を2つ書きたいと思います。 アキハバラデパート「伊呂波」のきじ丼 飲食店

      • お店に来る万引きする人

        万引き。それは普通に犯罪ですが、おそらく当時のパソコンショップでは横行していたと思います。 店内はいつもお客さんでごった返していて、死角が出来やすく、店員も忙しくして視野を広げて見ていられない状況です。 もちろんさまざまな対策は検討されてきました。当時としては比較的早く防犯機を導入しました。入口に防犯ゲートを設置して、商品には防犯タグを貼り付けておき、レジを通過していない商品がゲートを通ると、ちょっと大きめの警報音が鳴ってお客さんにお声がけする。・・・と言うのが理想でした。

        • 直前に発売中止。メガドライブ用テトリスのサンプルROM

          1989年、ゲーム機の主流は任天堂のファミコンとセガのメガドライブ、そしてNECのPCエンジンという、三つ巴の戦いがありました。 そしてこれはゲーム機の売上は、面白いゲームソフトがあるかどうかに大きく左右されるものでした(これは今もそうかもですが)。 ファミコンはハードとして終焉期を迎えていて、PCエンジンは発売から2年くらい経っている中で、セガのメガドライブは数ヶ月前に発売された最新機種です。 製品外観には大きく16bitと書いてあってなんだか高性能なイメージがありました

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        • アキバゆるい四半世紀
          5本

        記事

          利益を生み出す、いまは出来ないビジネスモデル。ソフトとコピーツールとブランクディスクと。

          映画や音楽、絵などの創作物に著作権があるのは普通のことですが、当時パソコンのプログラム(ソフト)に対する著作権は法律的にはあいまいな状態でした。 そのためパソコンショップの商品カテゴリには「ハード」「ソフト」「消耗品」などのほかに「コピーツール」というものがありました。 その名の通りソフトウェアのコピーができてしまうものでした。しかもハッカーのような深い知識がなくても簡単にコピーができました。 定価よりかなり安くソフトを入手できるため、多くのパソコンユーザーが飛びつく市場にな

          利益を生み出す、いまは出来ないビジネスモデル。ソフトとコピーツールとブランクディスクと。

          青果市場(やっちゃ場)が閉まった時

          秋葉原駅電気街口の北側の出口から出ると、すぐ目の前に電気街のイメージとはまったく違う建物がありました。それは神田青果市場。 電気屋さんにあった懸垂幕やネオンサインなどは全くなく、白く殺風景なデザインで1989年当時15歳だった私はこの建物が何なのか、わかっていませんでした。 トラックが上層階に上がれるぐるぐる回るスロープがあって、トミカにあった駐車場おもちゃを連想させ、そのような現物を見る機会もあまりなく印象に残っています。 私が秋葉原を訪れた時は閉場していたばかりで、市場自

          青果市場(やっちゃ場)が閉まった時

          自己紹介

          自己紹介高校生になりたての時、私はとにかくお金が欲しかったので、すぐにアルバイトをはじめました。しかし世間知らずの私はどれも長続きせず、楽しくもなかったことが続いていました。 そんなことを繰り返していたのに、最後に入ったバイト先が私の人生を決定づけたのです。 それが秋葉原のショップ店員でした。 学生を卒業したらそのまま正社員となり、店員から店長、バイヤー、事業部責任者と、株式上場などさまざまな経験をさせていただき、結局人生の半分以上を秋葉原で過ごすことになりました。 時代と

          自己紹介

          目次

          「アキバゆるい四半世紀」で書いていきたいと思っているものを箇条書きにして、目次とさせていただきます。 本文を書いていくうちに順番も変わっていって、全部かけたら本当の目次になります。 【公開中】 ・自己紹介 ・青果市場(やっちゃ場)が閉まった時 ・利益を生み出す、いまは出来ないビジネスモデル。ソフトとコピーツールとブランクディスクと。 ・直前に発売中止。メガドライブ用テトリスのサンプルROM ・お店に来る万引きする人 ・アキデパのきじ丼・ファニーのミートソース〜秋葉原飲食事情