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9月からのこと。

今週はようやく地域のイベントごとのない週末で、久々の丸一日の休みの昨日は季節外れの台風で雨がざあざあと降る中、朝から家事をした。

散乱した服を片付け、猫と人間のトイレを掃除し、台所の洗い物をし排水口の詰まりを解消し、シフォンケーキを焼いた。純粋に楽しみとしてケーキを焼いたのは母が倒れてはじめてのことかもしれない。

9月の10日頃に母が倒れてから約1ヶ月半、昨日までゆっくりと落ち着く日がなかった。救急搬送されて3週間ほど重篤な状態だったし、それを抜けても、話をすることすら難しい状態がずいぶんと続いていた(今はお腹から声が出てるなと思う瞬間がある)。命の危険がなくなったとは言え、寝たきりで身体で動かせる部分は首と手先足先という状態だ。ただ、リハビリと食事ができるようになってきているおかげで、肩や腕・足なども動く気配があるので、時間がかかるかもしれないけれどいつか自分で歩けるようになるだろうと、私は楽観的に考えている(状況に積極的に対応していくだけで悲観は無用と思うので)。

9月いっぱいは母の見舞いと家族のケアに追われていた。10月に入ってからは福祉大会という地域のおじいちゃんおばあちゃんのわりと大きめのイベントの責任者だったので、見舞いに行きつつもなんとか無事に終え、先週末は選挙の立会人をしていた。

周囲の人たちは母と自分の状況を説明すると、そんなこと起こっているとは思えなかったと驚かれるほどハードな日々だった。

以前の自分であれば母の入院から半月後に家族がパニックを起こしたことなど持ち堪えられなかっただろうと思うのだがなんとか乗り切ることができた。

それはストレスの逃し方と疲れた時の休み方、具体的には温泉旅館の回復力の高さを知っていたことが大きい。

そして精神的にぎりぎりの時に助けてくれた人が何人もいたことが、本当に救いだった。遠方から駆け付けてくれた家族(血は繋がってないけれど)、母の年下の友人、気風の良い母よりも年上の私の友人、不安定にもかかわらず本当にきつい時に話を聞いてくれた同い年の友人、小柄だけれどあたたかくて力強い母の義姉。

そんな人たちが泣きたくなった時に話を聞いてくれたおかげで、綱渡りをするように、なんとか乗り切ることができた。

それ以外の周りの人たちもすごくあたたかい。バイト先の年下の社員さんは早退したり急な休みをとることに寛容だし、自治会の事務局(今年度からその職員を務めている)の人たちも相当にカバーしてくれているし、地域の福祉部の代表の女性にもとても助けて頂いたし、隣の家の女性はことあるごとに夕飯のお裾分けをしてくれる。


その一方できつかったのは、自分が母の様子を知りたいからという理由で連絡を取ってきた何人かの人だ。もちろん母を心配してくれていることは分かるのだが、私としては日常生活と母の見舞いと家族のケアでいっぱいいっぱいの時に連絡をしてこられて母の状況を探られることほど精神的負荷の高いことはなかった。

その数人についてはその無神経さと身勝手さにおいて、今後二度とかかわりを持ちたくないとまで思った(母の友人なので微妙なところだが)。

そう考えると母や私の様子を気にしつつも遠巻きに見守ってくれている人たちというのは本当にすごくて、私が同じような状況の人を知った時には静観しようと思った(助けを求める相手には自分から連絡するものだ)。


母のことについて書くべきなのかということには迷いがある。正確に言うと私自身に迷いはないのだが、母も父も遠方の家族も、自分たちの弱っている姿を晒すのを良しとしない高潔な人たちなのだ。

けれど、母という人はある種のカリズマの持ち主であり、知人が多い。その人たちが母の様子を知りたいとそわそわとした感じが伝わってきた。私としてはそれが煩わしくてしょうがないのだけれど、それは情報がないからそわそわしてしているのであって、情報が共有されていれば騒ぐこともないだろう。

情報は隠すからこそ知りたくなるのであって、公開した方がその情報に価値はなくなる。

家族へ。
私はそう考えてるから書いたよ。
嫌だったら申し訳ない!
母はきつめの冗談も言うようになったから、たぶん大丈夫。
駆けつけてくれたこと、本当に感謝してる!


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