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【イトナミコラム号外】第1回イトナミツアー諏訪編 その2

第1回イトナミツアー諏訪編 その1はこちらから

ぞんざいに扱われる石棒や双対道祖神と歌舞伎町トーヨコのバーニング跡地からミシャグジの発生の根本原理をなんとなく掴みかけた前回。

このあたりからさらに諏訪ツアーは深まっていき、古代人のものづくり思想が確実に自分の中にラーニングされていくことを実感していった。

瀬神社を後にした我々は、あらたなミシャグジに会いに向かった。

言うまでもないことだと思うが、ミシャグジや神は現実には存在しない。これらは私たちの脳内に共通概念として発生するように法則性を持って仕向けられたものである。

梅干しやレモンを想像した時に唾液が出るように、プロレスを見た人々がみんな興奮するように、古代人は人々の意識に同様の効果を与えるために、アナロジー的な造形や儀式を利用して、人々にメッセージを与えていた。

このように具体と抽象、現実と概念を自在に出し入れして、頭の中に浮かんだこと現実に表現することは、ものづくりをする人間にとって大きな武器になるはずだ。思想を形にすることに意味があると信じている。

◎茅野市 瀬神社周辺

石棒の名残だろうか石碑が複数立ち、水源信仰と一体となっている。
ヘビのメタファーである藤の木があった。
藤には毒があることと、藤の枝はヘビのように見えることから藤=ヘビの図式が成立したと推測される。そして藤の花の蜜にはクマバチが惹きつけられ、藤とクマバチの共生関係が見受けられる。
しかし実際のクマは長細いヘビ(藤)が嫌いだ。クマも人間と非常に関係性が深く神格化されているし、そのクマに恐れられるヘビも同様に神格化される。古代人は藤とクマバチの関係に何を見たのだろう。

◎北大塩の接吻道祖神

接吻道祖神。男女が接吻しており足も絡んでいた。男女という矛盾が絡み合い、道祖神という1つの物体となっている。男女という矛盾が同一となる縁起の仕組みを内蔵していることでミシャグジ降臨条件を満たしている。

双体道祖神の裏にはさらに古い道祖神と石棒らしきものが残されている。
石棒と丸石のペアから男女の双体道祖神へと変化していったのだろうか。
時代の移り変わりが道祖神の形の変化で見てとれる。
新しめの道祖神
丸石(女)道祖神
石棒(男)道祖神
激しめの道祖神
しめ縄の道祖神。複数の女性器形状の縄が見て取れる。
道祖神のスタイルは全国各地で数多く見受けられる。
多くは生命信仰の形を模しているか、男女という矛盾を同一にした縁起を表現している。
男と女、棒と穴、石棒と丸石、土偶や土器、剣と銅鐸、竹と松、杵と臼などなど、縁起物といわれるものや祭りの行事は生命信仰から派生して形を変えたのではないだろうか。
形は変われど隠された人間のメッセージは変わらない。

◎諏訪市豊田 町屋周辺のお散歩

御社宮司(ミシャグジ)社
ガイドの石埜さんいわく、ミシャグジは常にそこに存在しているものではなく、憑いては離れるものだという。諏訪ではミシャグジとして石棒や道祖神や社が常時、祀られているが、そこにはミシャグジは存在しない。これらのミシャグジ社はミシャグジが憑いたことのある使用済みの遺物ということだろうか。このあたりの発想がとても面白くていかにも精霊らしいところだ。
ミシャグジはこの世の全てに満ちているが普段は現われてはこない。現れるときは一瞬であり、出現条件は矛盾が同一になる瞬間だと思われる。矛盾が同一となる時、ミシャグジ(精霊)が石棒などの依代に出現し、同時に即、ミシャグジ(依代)はミシャグジ(精霊)に還る。
胡桃沢神社 8本の御柱
西田幾多郎の言う絶対矛盾的自己同一の仕組みとミシャグジ降臨条件が一致する気がしている。未だ来たざるものと過ぎ去りしものが同一になるときにミシャグジは現れる。まさに多即一・一即多の仕組みがミシャグジに適応される。諏訪に密教が多いのも納得する。
隙間から石棒が祀られているのが見える。穀物国家およびその文明では、開拓の先祖を祖霊として神格化し、常にそこに鎮座する偉大な神として石座や古墳、神社などの形態でその威厳を示し、死後も子孫たちを監視してイトナミを継続させてきた。祖霊(祖先)は常にそこにいるが、ミシャグジは常にそこにいない。このことからミシャグジは穀物国家誕生後の祖霊信仰ではなく、それ以前の古い信仰であることを理解してきた。時代とともに精霊生命信仰と祖霊信仰が習合していく様が見える。

◎塩尻のミシャグジ 耳塚様

道なき道を行く
穴の空いたお椀が吊るされている。
みみづか様ということで耳の通りが良くなるようにということだろうか。
推定3~4000年前のものとされる石棒
なめらかでシンプルでとても美しい。しかし根本をコンクリで固めるのは断種的。
このあたりも穀物国家としての文化財ではなく、あくまで民間信仰であるという点でミシャグジらしいといえばらしい。石棒は最初からあったのか、後にここに持ってこられたのか時系列は不明だが、どちらにせよミシャグジはみんなと仲良くやれる精霊だ。

◎小野神社・矢彦神社

2つの大きい神社が併設されている珍しい神社。

小野神社
意味ありげな夫婦杉
矢彦神社
小野神社と矢彦神社は並んで設置されている
2つの神社の中心部に位置する石棒のようなおぼこさま。
おぼことは御鉾(おぼこ・矛)のこと。
祭儀のとき、おぼこさまに立てられるというサナギ鉾
鉾の先端に鉄製のサナギ(鐘)が12個取り付けられているらしい。
サナギの上には麻がかけられる(麻幣)。
鉾は男、サナギは女性や子宮であり、麻幣は胞衣(羊膜やへその緒)のメタファーだと思われる。
諏訪では銅鐸のような鉄製のサナギ(鐘)が見つかる。
イモムシ→サナギ→チョウのようにサナギは転生を表現していると思われる。
サナギに包まれたものはドロドロに溶かされて、新たな個体として転生する。
このどろどろに溶かされた世界へ導く存在がヘビであったり、縁起であったりするのだろうか。
そして溶かされた世界がミシャグジや自然生命と呼ばれる「多」の世界なのではないだろうか。
これは発酵のメカニズムと非常によく似ている。酒の発酵タンクもサナギだろう。
2つの神社の中心、おぼこさまの奥には水源地か石座のような祠がある。
小野・矢彦の位置関係

いままで石棒と丸石、男と女の双対道祖神など、矛盾が同一になるミシャグジ発生原理の形をみてきた。

それを踏まえると、小野神社と矢彦神社の配置図は矛盾が同一になるミシャグジ発生の仕組み(縁起儀礼)を有しているように見える。

祭儀の際には、2つの神社の中心地であるおぼこさまに、サナギ鉾が立てられたという。

小野神社と矢彦神社という矛盾がサナギのなかでミシャグジか縁起により溶かされ、同一となって新たな存在として生まれてくる。生まれてくるものは子供(未来)であり水(米)なのだろう。

普段は小野と矢彦は対立構造となって切磋琢磨している。しかし祭儀のときには互いに一つになり未来を創造する。諏訪大社の上社と下社の関係にも似ている。ミシャグジの発生原理をベースとしてこの2つの神社の仕組みができあがったように感じる。

矢彦神社と小野神社は互いにエントロピーとアンチエントロピーとして拮抗してイトナミを造っていた。ものづくりをする際にはその中に矛盾を忍ばせておく。これはかなり奥義だろう(→水母)。

◎イトナミツアー諏訪編 1日目終了 直会

分刻みのスケジュールをこなし、存分に諏訪を体感して古代人の思想に想いを巡らせた。古代人に習って、今度は私たちがミシャグジを降臨させ、私という個を溶かして同一(群れ)になる番だ。

それにはどうしたらいいか?人間は概念を共有すると群れになる。

諏訪という概念を共有し、一緒に酒を飲めばミシャグジは現れる。

温泉で有名な下諏訪で30分足らずの入浴を済ませて飲む。

下諏訪 神楽
天穏と岩井堂ワインで飲(や)る
タコ
酒粕味のなにか
忘れた
忘れた
岩井堂セレクトワインも多数あった
忘れた
うなぎ
奇跡が起こりミシャグジ(大天使)様が降臨。
偶然にも同じ出雲市内の蔵人と諏訪でばったり出会う。
こんな偶然があるのか‥。
ミシャグジ発生法則が正しいことを証明したが、欲望がうずまき岩井堂は荒れた。

イトナミツアー諏訪編 2日目 その3へと続く。


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