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【イトナミコラム7】空は有ると言おう その2


◎有ると無いは矛盾しない

自分が有る哲学に気づいても、周りや社会は無い哲学のまま進行します。

無い世界で有ることに気づいても生きにくいだけという現実がある。

ジョンレノンが言うように昔も今もこの先も、社会は空が有るという者を夢想家だと笑うでしょう。

しかしながら空が有ると仮定しないと自然科学が成り立たないのもまた事実。空が無かったら呼吸も熱交換も出来ずに生命は存在できません。

合理的な技術者であり、万物に縁を伸ばす思想家であり、自己情緒からの問いにYESと答える求道者ならば、この想いを放っておくことなど出来ません。

自然科学と自然生命という概念のあいだには矛盾がなく、そのあいだを行き来できるものでなくてはならない自然科学の細部を見て分類していく性質は、自然生命という極大を理解するためにある。

そう言ったシュレディンガー先生はtat tvam asiの智慧と自然科学のあいだには矛盾がないと考えていました(道を求めて)。

自然科学が空の内容物をすでに証明しているならば、自然生命においても矛盾なく空は有ると言えなくてはなりません。

しかし現代社会では自然生命(有る)を軸に考えるとその仕組みは成り立たない。

空は有るのに、無いと仮定しないと現代社会が継続しないという矛盾が自然科学と自然生命の対立構造を生んでいる。

科学は野生を野蛮として、野生は科学を頭でっかちだと否定する。おそらく現実はどちらもあり、またそのあいだもあり、その矛盾なき自由な行き来の営みが世界全体を構成している。

誰もがそのことに気付いているが、社会で生きていかなくてならないという名目のもとで無い世界を肯定し、空が有るとは信じないとして行動する。そして空が有るという詩人を嘲笑する。

どうすれば無い世界で有る哲学を実践できるだろう。

◎空があると信じられる方法論

有る哲学に気付く方法論はアールニやヴァルキアを経たブッダが2000年前に解いたこと(≒スッタニパータ)ですが、現代の仏教や宗教は原始仏教から遠くノイズが多くてシンプルに学ぶことは難しい。

イトナミコラムに付き合ってくれる人は、私の酒を通じて、すでに有るつながりの片鱗を味わっているはず。

私がイトナミ(空)を見た状況から推測する方法論を信じてくれるだろう。

この言葉や文字から伝わらなくても、酒を飲むだけですでに伝わっている。酒を飲んだみんなにはすでに伝わっている。入力方法はどうでもいい。頭の中で分かればいいだけだ。

本来、このようなことは言葉にする内容ではない。しかし今後の自分のすることにとっても重要な部分のため、文字として残さなくてはならない。他者をどうこうしたいわけではない。息子のために残す。

◎tat tvam asiの理解

まずは言葉から理解する。
空が有るという言葉を理解する。

空は有るとは、もとをたどるとアールニのtat tvam asiという言葉です。

tat tvam asi(其れは汝である)

まずはサンスクリット語のtatとtvamを知ろう。

調べてみるとtatがブラフマンで、tvamがシヴァ、asiが~であるという意味らしい。これらは固有名詞ではなく属性です。

般若心経で言うと、tatは空で、tvamは色だ。
現代的にはtatが自然生命で、tvamが自然科学でも良い。

でもtatもtvamも同じもの。そんな関係。

分類としてはこうだろう。

tat=ブラフマン、宇宙、神、精霊、多、空、全、道、禅、縁、情緒、ピュシス、コーラ、レンマ、闇、夢、阿頼耶識

tvam=シヴァ、個、一、色、ロゴス、言葉、科学、数字、現実、人間

asi=有る

◎tat tvam asiは縁起儀礼だと知る

こう見ると、このtat tvam asiという言葉が縁起儀礼の条件を示す言葉だということが見て取れます。

縁起とは決して交わらないと考えられるものをつなげることです。

古代人は贈与によって縁の道を対象(自然や神)に伸ばしました。そして縁起儀礼によって未来を予め祝い、イトナミの継続を現実にしたのです。

tat tvam asiは、tatとtvamを互いに贈与させて縁起させるとasiとなる構造で成り立っています。なんなら文法というものも縁起関係で成り立っているようにも見受けられる。音や数字もそうなのでしょうね。

日本酒でいうと、tatは神(米)で、tvamは人間で、asiは未来です。

神と人が未来である。神は過去であり、人は現在です。

過去と現在が、未来である。

概念世界では主語と時間は変化しており一定ではありません。どこの時間に立っていても、どの目線を持っていても良いのです。

無い世界でそういった認識と行動ができる状態が酔いかもしれません。

だから過去も現在も未来も同じになる。
神は人であり、人も神である。

人間目線では、過去と未来を縁起させることで現在という時間を作り続けている。これは現代人も同じで、人は経験した過去と望む未来から行動を決めています。

シュレディンガー先生も幾多郎先生も、これを永遠の今と呼んでいましたね。

このようにtatがtvamに、tvamがtatになるときにtat tvam asiが成立します。

これが私があなたで、あなたが私、其れは汝であるという意味です。

この関係性が構築されれば空間(存在+時間)が生まれ、空が有るを実現します。

松尾芭蕉はこの法則を利用して名句を数多く残しています。

「秋深き 隣は何を する人ぞ」

これは自分(tvam)と隣人(tvam)が同時に存在して、秋というtatのもとで同一化しています。一瞬で情景が浮かびますね。

「松島や ああ松島や 松島屋」

自分と松島がtvam、ああがtatです。ああの中には空と音がある事を感じさせます。ああだけでtatを表現するのが天才です。自分と松島までの距離には空も海も山も見えるほど空間が広いです。

「古池や 蛙飛びこむ 水の音」

古池の水と蛙がtvam、音がtatです。めちゃくちゃ当たり前のことしか言ってないのに情景が浮かぶのは日本人に情緒が有るからです。カエルが池に飛んだだけです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」

岩と蝉がtvam、静けさと蝉の声と岩の反響音がtatです。この句は岩の営みにまで縁を伸ばしていて、なおかつ岩から音が反響し、空間のしずけさにまた還元されるところまでを読んでいます。だからtat tvam asiが2回仕込まれています。だからこれは無限ループになります。悠久の時を感じさる超絶技です。

このように2つのtvamが存在し、そのあいだをtatが埋めている構造であることがわかります。

この3者によって風景と時間が現れ、これらはasi(有る)ものとして同じになります。

私たちは個ですからtvamです。そしてこの空が有る論では同時にtatでもあります。

有る哲学ではtatを見る能力はtvamに既に備わっていると信じられています。

無い哲学では「其れは汝ではない」ですから、五感で感知できないtatを信じることはできないですね。

tatを読む芭蕉の俳句も理解できないでしょう。

この世界の現実では、物質も思考も世の中の全てのものがtat tvam asiが成立した姿であると言えます。

母と父の縁起によって生まれた私たちも有る哲学から生じているのは当然と言えます。

万物や物事、思考から縁起関係(tat tvam asi)を見つけることは審美眼を養うことと同意です。

5感で感知したことを帰納演繹的に分解してtvamをあぶり出し、その背後に隠れているtatを見つけ、その間をつなげている条件(asi)を知れば、その過去と未来を予測することができます。

そのように目の前に写るもの全てに縁を伸ばし、それぞれのtat tvam asiを直感すれば全てに共通するtatが見つかるはずです。

日常の景色では散らかりすぎて縁起関係を見るけることは難しいと思います。

それが雄大な夕日や空や海や山だったらどうでしょう。

芭蕉の俳句で想像すような環境だったらどうでしょう。

言葉にできなくても、何かしらの関係が見えてくるのではないでしょうか。

そうなれば空は有るとしか言えなくなる。

すでにあるつながりを信じられる。

それを岡潔は無分別智や直観といいました。

◎無差別智(直観)

私がイトナミを感じた体験は、岡潔の言う「無差別智(直観)」の体験だったと思います。これは岡先生が説明してくれています。

それで仏教に聞いてみましょう。それじゃあ人は見ようと思えば見えるのは何故であるか。それに対して仏教はこう答える。人の普通経験する知力は理性のような型のものである。これは意識的にしか働かないし、わかり方は少しずつ順々にしかわかって行かない。
しかし稀ではあるが、たとえば仏道の修行の時とかそういった場合に、これと違った型の知力が働く。無意識裡に働いて、一時にパッとわかってしまう。こういうのを無差別智というのです。
無差別智の智は知るという字の下に日という字を書きます。この下に日を書いた知力といえば知、情、意に働く力という意味です。だから知だけではなく、情、意もそうですね。これしかし、みな同じであって無意識裡に働くんです。そして一時にパッと完了してしまう。そういうのが無差別智です。

私が出雲沖で釣りをしている時に見たイトナミはまさしくこの無差別智の直観でした。まさにランボーの詩のように「見えた、何が、永遠が」と言えるような体験でした。

それをどうにか酒に落とし込もうと、こうして言葉や思想にして理解してアウトプットできる形式にしている状態です。

分かるのが最初。その現象を後から言葉や論理として知る。

無差別智はそういうもんですね。

無差別智には四種類あります。大円鏡智、平等性智、妙観察知、成所作智。四つありますから四智(しち)というのです。
眼をあけると見えるのは四智がみんな働くからである。見えるのはひとつの情景が見えるのである。これは大円鏡智の働きである。部分部分をよく見れば色形がはっきりわかる。これは成所作智の働きである。その情景が実際にあるとしか思えない。これは平等性智の働きである。その智力は存在感を与えるのである。じっと見ていると自分の心がその情景の色どりに染まる。これは妙観察智の働きである。目を開けると見えるのはこの無差別智が働くからである。
自然科学とは自然とは何かということを言明しないで、自然について研究した文献の集まりに過ぎない。日本のように自然科学がやがてすべてを説明すると思うのであったらそれは物質主義である。しかし物質主義は物質が常に諸法則を守って決して背徳しないの何故か、時間と空間とは何かということを説明できないのだ。
そうすると人が現実にその中に住んでいる自然は、単に五感でわかるようなものだけではなくて、無差別智が絶えず働いているような自然でなければならない。
ところが無差別智というのは個に働くのです。だから無差別智の働きというと個の世界の現象です。しかし個の世界は二つの個が一面二つであり、一面一つでなければならない。こういう世界です。だから個の世界は数学の使えない世界です。
これに反して、物質的自然は数学の使える世界です。だから人は物質的自然には住んでいないのです。

無差別智は4つの智力が合わさったものだと岡先生は言っています。

同時にこの智力は自然科学(物質主義)ではないとも主張しており、無い世界では説明できないものとしています。

つまり無差別智は有る哲学に準じており、有ることを信じられる智力と言えるかも知れません。

自然科学(物質主義、無い世界)と自然生命(無差別智、有る哲学)とそのあいだが矛盾なく行き来できる状態がtat tvam asiの構造といえるでしょう。

◎四智を高めることで無差別智が現れる

無差別智=大円鏡智+成所作智+平等性智+妙観察智の四智です。

ひとつひとつ見ていきましょう。この四智が高まると無差別智(tat tvam asi/イトナミ/空は有る)に至ります。

大円鏡智(だいえんきょうち)…一つにすること
成所作智(じょうしょさち)…違いが分かること
平等性智(びょうどうしょうち)…あると思うこと
妙観察智(みょうかんさっち)…自身と関連つけることが

岡先生いわく、これは目の前の視覚情報から説明できます。

まず目の前の世界を1つの世界として認識しているのが大円鏡智。

その中で違いがわかり、分類することができるのが成所作智。

そしてそれらに質量があり、存在していると思えることが平等性智。

さらにそれらと自身と関連付けて感情移入できることが妙観察智。

そしてこれらを合わせて行動していることが無差別智(tat tvam asi/イトナミ/空は有る)の働きです。

無差別智はもちろん触覚、嗅覚、味覚、聴覚でも働いているでしょうね。

酒においても全体が混ざった香味(大円鏡智)、それぞれの香りと味を識別すること(成所作智)、その香味の強弱(平等性智)、香味と自身の記憶と関連付けして安心や懐かしさを感じたりする(妙観察智)。

何気ない日常生活のなかでも5感✕4智=20智の複雑な入力があり、それを脳内で統合して取捨選択し、自身の無差別智(tat)の現れとして自然な個体行動(tvam)が起きています。

それは自身だけではなく、まわり全ての世界や時間や空間がそのように動くので、世界(tat)はダイヤモンドカットや万華鏡のミラーハウスのように見る人によって常に絶え間なく変わって影響し合っていくように見えます。

これは環世界や棲み分け、華厳の考え方に近いですね。これらの集まりが空が有ると言われる世界であり、空の多面性の現れでしょう。

世界は四次元空間がいくつも無限層に連なって即時的に影響しあっているという話がある。この話はまさしく空が有ることを言っているようだ。

この世はすでにマルチバースだ。

◎無差別智から現れる情緒

入力された情報が同じでも歩き方や話し方は人によって違いますね。立つ、話す、成長する、無差別智から発せられたこれらの行動は人によって個体差があります。

無差別智から現れてくる行動には個体差がある。

これが情緒です。

赤ん坊や子どもの行動はまさにこの情緒的行動ですね。絶えず周りに影響され、即座に直観的反応が現れる。

無差別智の現れとして自身の身体が反応している。

お腹が空いてミルクを求めることは無差別智の現れですが、その求め方は赤ちゃんそれぞれの情緒が有る。

眠たくなって寝ることは無差別智の現れですが、その寝姿は人それぞれの情緒の現れです。

違うけど同じ。同じだけど違う。お腹が空いたこと(tat)と食べること(tvam)は同じだけど違う。違うけど同じ。

ブラフマンとアートマンの違いのようなものでしょうか。

これがtatとtvamの関係でしょう。tatとtvamの関係性が近しいほど自然であり、空は有る哲学に沿った行動だと言えます。

人生からの問いにイエスと答えることも、愛を伝えることも、ものづくりの境地も、無差別智(tat)を自身の情緒(tvam)として素直に現す(asi)ことと言えるでしょう。

無い世界に生きる社会性の強い大人は無差別智に逆らって無い哲学の仮面をつけて行動してことが多いですね。私も毎日やっています。

社会全体としてみんなそれを行うからコミュニケーションがままならず孤独になりがちですね。

仮面同士のコミュニケーションが好きな人もいるかも知れませんけど、虚空を掴んでいるようで空を呼ぶ縁起が発生しそうにありません。

◎四智が高まるタイミング

四智の働きを高めることによって無差別智にいたることがわかりました。 

それは空が有ると信じる情緒を高めることとも言えるでしょう。

現代社会の無い哲学のもとでは四智それぞれの働きが曇っている。

私たちが赤ん坊や子供の頃は情緒で行動していましたので思い出せばよいのです。大人になっても四智は働いています。

現代社会では違いを識別する成所作智が強く働いていますね。これは言い換えると数字や言葉や科学の分類する力です。空が有る(tat)を説こうとするこの文章も成所作智の力ですね。

成所作智を高めるためには自分の専門分野を極めれば大丈夫です。成所作智は自然科学的に分類してミクロ化して物事を理解することで磨かれます。

大事なことはあくまでもtatへの理解のために成所作智を使うことです。ミクロだけやってたら細分化するだけで選民思想のイジメみたいです。

自然科学はあくまで自然生命という全体を知るために有る。ミクロへの探求はマクロへ智力を還元するためにある。それが成所作智の智慧です。

そして次に磨きやすいのは妙観察智です。これは言い換えれば共感や感情移入の力です。現代でも映画を見たりスポーツを見たり推し活したりエロい動画見てチカシパしたりして他者に感情移入していますね。

妙観察智の力もtatへ向けることが重要です。空や何気ない草木や生物、はたまた鉱物やコンクリート、金属などの人工物にいたるまで共感を持つのです。

車を見て人工物で無機質だと感じるかも知れませんが、そのボディはもともと自然界の鉱物であり、タイヤやガソリンは植物で、運転する者は人間です。

車に愛着を持ち、車内でご飯を食べ、子どもと遊びに行ったり、車と有機物以上のつながりを感じる人もいるでしょう。

このように万物に博愛をもつことが妙観察智の智慧です。当然、好きなものだけに愛を向けたり、自己愛を育てる事は妙観察智ではないでしょう。

嫌いなものを好きになるのは難しいですね。もしかしたら好きになる必要はないかもしれませんね、尊重すればいいだけかもしれない。

折口信夫は成所作智を別化性能、妙観察智を類化性能と呼びましたね。この2つは反対の智力と言えるかも知れません。しかしこれらは空(tat)のもとでそいのあいだが矛盾なく縁起されて無差別智となります。

ここまで来たらわりと大丈夫。

この2つもぜんぜん完璧じゃなくていい。ある程度でいい。

残りの大円鏡智と平等性智は楽ちんです。
これは絶対的な大自然を見ると高まります。

悠久の時を過ごすような夕日、海、闇、大自然をみれば、おのずと大円鏡智と平等性智は高まります。

大自然の営みに感動する。この感覚は体感した人が多いのではないでしょうか。これは大円鏡智と平等性智が高まっているのです。

これは自身と世界が縁起し、tat tvam asiが達成される構図です。
この瞬間に空は有ると信じられる永遠の営みを垣間見ます。

・自身の冒険を極めて成所作智を高める
・万物に博愛を持ち妙観察智を得る
・悠久の自然を見て大円鏡智と平等性智を高める

こうすることで四智が高まり無差別智となります。

これが同時に空が有ると信じられる具体的な方法論です。

先人たちもきっとそうだったでしょう。

夕日を美しいと思い、自分がそこに有ると実感し、子どもを可愛いと思い、この世界に対して博愛を持ち、その継続のために自身の冒険を全うする。

そんな人たちがわたしに空が有ることを教えてくれました。

◎End of ITONAMIコラム

私たちはみんな土から生まれてきた。そして誰かのつくった土を食べて自分の土をつくり誰かに渡す。

土の交換ネットワークが生命に共通するつながりだ。

つながりは土だけではない。

僕らは空ですでにつながれている。

空は気体や水やエネルギーで満ちている。

僕らは呼吸や光合成で空と交換してるし空の熱エネルギーによって暑いとか寒いとか言っている。

鉱物なんかは空のエネルギーをためているし、濡れたり乾いたりすることで空に情報をあたえてる。僕らは空からもらって空に還している。

その場にはその場の空がある。その場の空はそこにいる奴らと空がつくってる。暑かったり、寒かったり、ジメジメしていたり、カラッとしていたり、澄んでいたりどんよりしていたり、みんな違うけど空はつながれている。

空は気体だけではない。土も水も空から生まれている。

空は私であり、私は空である。

空が泣くと私も泣くし、私が泣くと空が泣く。

だから空の音はみんなすぐわかる。

雷も雨も誰かの鳴き声もぜんぶ空に伝わっている。
空の音はみんなに即座に伝えている。

空の音はみんな聞こえている

空はすでにある満ちていた。

そこから生命は増殖した。

空の中にある生命ははじめから全てつながれている。

空の生命はその空の内容物に呼応して姿形を変え、進化や退化、棲み分けを繰り返して生命全体種社会という群れをつくった。

空から生命は現れてくる。

そして生命は呼吸や光合成や熱運動でまた空を満たしていく。

空は生命であり、生命は空である。

空の下では生物も鉱物も何もかもが私であり、私は空である。

賢者はそれをtat tvam asiと言った。

それを様々な詩で伝えようとしてきた。

しかし文明以降、空の意味は「ある」から「ない」に変わっていった。

空の下の者たちのつながりは分断されて人間は孤独な種になった。

空は無いと思うようになった。

本当だろうか。

いや、空に何も無いなどありえない。

空は満ちている。

空はすでにある。

そう思えば営みが見えてくる。

自分があると思えば良いだけだ。

空が有ると言おう。

そういう詩を歌おう。

tat tvam asi

わたしはあなたである。

そんな酒を造ろう。

10年間の杜氏人生の中で自己情緒から生まれた疑問に答え続けてきました。日本酒、御神酒、イトナミ、愛、縁起、土、水、空など、とても漠然とした概念が自分の中で明確になり、私のゆるぎない醸造哲学として血潮になり身体を巡っています。

この醸造哲学は私の現実の酒造りに反映されて、酒造技術も独自で高度なものになっていきました。現代的なグルコ菌種や酵素剤、セルレニン耐性酵母、濾過器に頼らない古典吟醸の発展型に自然醸造を掛け合わせた独自の酒造りです。

初期から飲んでいただいてる人は、私の酒が製品から工芸品に、工芸品から伝統工芸に、伝統工芸からアートへと変化し、これまでのすべての要素を包もうとベクトルをマクロに広げようとしていることが分かると思います。

この作業には大きな代償を払いました。色々なことがあり、心身ともに大きく疲弊してしまいました。どこかで自分の歩みを止め、安定したことをやり続ければよかったのですが、そうすることは出来ませんでした。

これはこの10年で私の自己情緒と仮面を生んだ父が亡くなったこと、酒造技術を与えてくれた長崎、坂本杜氏が亡くなったことが大きいと思います。

愛を与えられた者はけして人生を諦めることができない。そうして先に進み続けました。続けて、疲弊して、ふと見つけたものは「すでにある」という直観です。

これは10年前に私が感じたイトナミというやつと同じものです。以前はほんの瞬間的なものでした。しかしいまは、すでにあるのです。

瞬間ではなく、すでに、つねにあるものです。
前に行かなくても、すでに有ったのです。

on the treasures already present in everyday life
日常の中ですでに贈られている宝物

わたしは酒を造らなくてもすでにある。
私も酒も造らなくてもすでにある。

これは子どもが教えてくれました。

先に進まなくてもいい。
無理をしなくてもいい。
すでにあるから呼べばいい。

よくある話ではあるんだけど、それがやっとわかるようになりました。
大いなる智慧を思い出しました。

たぶんなんでも酒になります。

そんな感じで最近40歳になりました。

ちょっとしたら、そういう酒造りをしようと思います。


ITONAMI being, Brewing YES.
イトナミは有る、それを信じて酒を造る。

イトナミコラム 第1部 1‐7 完 2024.11.19




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