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パン好きもとりこの五島の米・大切な人を大切に母娘帰省旅①

パン大好きな私が、ゆいいつ衝撃をうけたのが長崎県五島市で食べたお米でした。

それは15年前、母の実家にはじめて訪れた時に食べたお米。

2児の母になった私が、独身時の母娘旅を振り返ります。

あなたの親はどんな人ですか?
あなたはどんな子供でしたか?
死ぬ前にあなたが大切な人に伝えたいことはなんですか?


パンが大好きだ


私は冷凍庫のこおった食パンを見つけると、パキパキ割って美味しく食べられるくらいパンが大好きである。

※口の中でだんだん溶けて甘くなる、冷凍食パンを体験したいなら、8枚切りがおすすめです。

学生時代は食後のデザートがわりに、パンを食べて暮らしていた。

そのため成人式の晴れ姿は、なかなかのブーちゃんだった。

その写真を見てからは、パンとは大人の距離を保っている。

お米は炊き立てかそうでないかで、味が一気に変わってしまう。

一方パンは、焼き立てには赤ちゃんのぷるんぷるんほっぺにかぶりつくような禁断の妄想を。

寝かせたものは人生経験豊富なジェントルマンのような旨みが味わえる。

粉の配合やあわせる食材によって、異国の風を感じたり、見知らぬ人とも幼少期の思いでを共有できたりする。

パンの可能性は無限だ。

パンに恋してしまった私でも、一度だけ感動するほどおいしいお米に出会ったことがある。

長崎県五島市で食べたお米だ。


五島市といえば海でとれる新鮮な魚介類のイメージが強いが、魚よりなにより田舎のお米に心動かされた。

ピカピカに光ったお米は何より甘いのだ。

はじめはシャキシャキした感触が、次第に口になじんで甘くなる。

口いっぱい、お米だけがいい。

ついつい食べ過ぎてしまう幸せなお米だ。

そんな幸せなお米とは、15年前、母娘で母の実家五島へ遊びに行ったときに出会った。


母の実家へ母娘旅

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「仕事休んで大丈夫だったの?」

真夏の暑さが残る9月下旬。

社会人2年目、遅めの夏休みをとった私は、今さらながら長期休暇を心配する母と、五島へ向かうプロペラ機にのっている。

五島へは、いったん福岡か長崎を経由して、船か飛行機どちらかで向かう方法がある。

私たちは長崎でひと遊びした後、長崎空港から五島つばき空港へ向かうプロペラ機内にいるのだ。


「仕事は大丈夫。」

「こんなに小さな飛行機に乗るのはじめてだよ。本当に飛ぶんだよね。」

「本当に飛ぶよ!ちょっとゆれるけど、空から見る海もきれいなんだよ。」

旅行の手配は私に任せきりの母は、得意げに目をくりくりさせて言った。

小型のプロペラ機は40席ほど。

大型バスよりも少ない座席数に、乗客たちのワクワク感も互いに伝染する。

この人達は観光だろうか、なぜに五島へ行くのか。

仕事っぽい人はいなさそうだが、帰省の人もいるのだろう。

わりとラフでウェイウェイな雰囲気だ。


もしこの機体がハイジャックされたら、誰がリーダーになって乗客をまとめるのか。

やはりガッシリして、目鼻立ちからも意志を感じるあの人だろうか?

では足をひっぱるのは??

など自分勝手に想像するうちに、プロペラ機は出発した。

おぉ、結構ゆれる。

と言ってもジェット機でもゆれる時はゆれる。

「ごめんね、大丈夫?」となぜか謝る母。

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プロペラ機はジェット機より、飛行高度が低い。

島の形、山の位置、街並みまで地図を見るようにバッチリわかる。


「なんか。。。いいね。」

なんとも表現力のとぼしい言葉で、到着への期待を母と一緒に分かち合っていた。


プロペラ機は無事五島つばき空港へ到着した。


シートベルトサインが消えると、乗客も少ないぶん降りるのも早い早い。

「ありがとう、元気でね。一緒にハイジャック犯と戦った乗客たち!」と、一方的な名残惜しさを振りきってふと後ろをみる。

ハイジャック犯から全員の命を救った我らがリーダー役が、乗務員さんをまきこんで落としものを探していた。

いいリーダーって、なんだか助けたくなっちゃうリーダーなのかもしれない。

そもそも自分の落とし物を、人に探してもらう時点でリーダーの素質おおありだ。

そう思いながら、必死に座席の下をのぞく後頭部に感謝をつげタラップをおりた。


機体からおりると、アスファルトをじかに歩いて空港までむかう。

それもプロペラ機の味なところである。


五島到着



ここが五島かぁ。

小学校まで1時間、大声で歌いながら登校していたとか、ふざけていたら田んぼにおちたとか。

幼少期の母の話にでてくる五島は、とてつもない田舎だった。

それが社会人になって、「へぇー、お母さんあの五島出身なの?」とせんぼうのまなざしを感じるようになった。

行ったことはないけれど、逆輸入させたアニメを誇らしく思うような感覚で、五島を誇らしく思っていた。

行ったことないけどね。

母の実家には初めてくる。

旅行当時、母の実家には母の兄夫婦(70代)と母の母(90代)。
すなわち私の祖母が暮らしていた。

祖母は元気だった。

前よりは動けなくなったとはいっても、自分の身のまわりのことは自分でできるし、体調がいいときは畑仕事もしていた。

庭の柿のみが熟したらほし柿を作るのも祖母の仕事だ。

母の兄夫婦は仲が良かった。

田舎で何をそんなに話すことがあるのか、と思うくらい2人でよく話をしている。

「ごにょごにょごにょ。はっはっはー」
「ごにょごにょごにょ。そうね。そうね。」

きっとこうなったら夫婦は本物なのだ。

必要のない内容の会話が日常を彩る。

会話はふれあい。その数だけ相手を理解し、受け入れられる。

夫婦も他人も会話をさけることは、相手にぬれぎぬを着せ敵視することにもつながるのだ。

母の兄夫婦は病気がなおるという電気布団を、旅行中熱心に母にすすめていた。
母は「ほぇー」とか「ふぁー」とか変なあいづちをうっていた。


母の兄夫婦の家は平屋の瓦屋根。

立派で大きな家だった。

何畳あるかわからない広い畳部屋に、うるしの座卓テーブルがちんざしている。

母の義姉は楽しそうにご飯の用意をしてくれた。

お味噌もぬか漬けも、ほとんどのものが自家製だった。

大切な母の大切な祖母


「よく来たね。遠かったでしょうー。」

「あかねちゃん(私)も大きくなってー。」

「東京で頑張って、えらいえらい、あんたはえらいよー」と、祖母は愛おしそうに母を眺めていた。

90代の祖母と50代の母。

祖母の目に映る母は、いつまでも子どもなのだ。

母は18歳で東京に集団就職している。

50年前当時、今より出回る情報もない中。

五島からほぼ出たことがない少女が、遠い東京という場所に身一つで来る。

当時は船と汽車で何日もかけて、ようやくたどり着いた東京。

実家にはそう簡単に帰れない。

不安だったのだろうか、期待に心おどっていたのだろうか、淋しかったのだろうか。

若く怖いもの知らずだからこそ、できたのかもしれない。

母はよくわからない東京で、よくわからない父と結婚した。

自分の場所で努力し、昼夜を問わず働き、近くの他人に助けてもらい2人の子どもを育てた。

母は祖母の前で子どものようだった。

「おかあちゃんのあの料理好きだったな。」

「あの時、こんなことがあったねー。」

「やっぱり、私は頑張ったんだよね。」

母が誰かを『おかあちゃん』と呼ぶこと、甘えていることに違和感があった。

私の中にはいつも気をはって、ぜんそくと戦い、時間に追われている母しか頭にないのだ。

母は育児を楽しんでいたのだろうか。

いつも、仕事か家事か心配しかしていないように見えた。

自分を犠牲にして、幸せだったのだろうか。


本当においしいものって?

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「なにこのお米!おいしい!!」
私と母はお米を食べて目を丸くした。

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五島に到着したその晩に頂いたのが、衝撃のお米だった。

お刺身や揚げ物、煮物に焼き物、かわいいサラダ。

普段はきっと食べないであろうものまで、私達のために用意してくれていた。

そんなどんなごちそうよりも、お米が断トツ一等賞だった。

どうしてこんなにおいしいのか。

聞けば、農協で買う10キロ3000円弱のお米だという。

「東京の方がおいしい食べ物はいっぱいあるでしょ。」
そう笑う五島のめんめん。

本当においしいもの。

スパイスが絶妙なカレーとか、匠が揚げるサクホロッな豚カツとか、ウニやいくらを生クリームでまとめたパスタとか。

「東京のおいしいもの」と言われて頭に浮かぶものは、どこかよそ行きだった。

こうやって家族があつまり、昔話をなつかしみながら、温かい大皿料理を囲んでたべる。

まぎれもない安全基地、見返りも利害関係も存在しない。

無条件でうけいれられる自分の居場所。

私の最愛の母が安心しきって食事をしている。

遠い家族がかえってきて、温かさにみちた、この空間にまさるおいしい食事なんてあるのだろうか。


この時間はとっても大切な時間なんだ。

ここにいる誰もが、この時間を心に焼きつけている。

人生のひと仕事をおえた人のやすらぎの表情を、愛おしみながら時間は進む。


②へ続く




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