Road To H3 その1: イトカワ伝説
前回、H3ロケット発射間近の記事を投稿しました。
その数時間後に、気象条件が悪く2月17日に再延期することになりました。
なかなかクールダウンが難しいので、今回からH3ロケット開発までの国産ロケットの歴史について紹介したいと思います。
世界で見ると、「ロケットの父」と呼ばれるのが、ツィオルコフスキー氏(1857 - 1935)です。
幼年期に聴覚をなくしながらも、ロケットを推進させる方程式を考案し、現代の宇宙工学の基礎を築いた方です。
暫く無名でしたが、ソ連のロケット開発の功労者コロリョフが高く評価して世に知られるようになりました。
余談ですが、コロリョフ自体も他国からの暗殺を恐れて国家にその存在が隠されていたので、もしかしたら不遇の境遇への共感もあったかもしれません。
さて、本題ですが、実は我が国にも「ロケットの父」がいます。
「糸川英夫」博士です。(1912年7月20日 - 1999年2月21日。タイトル写真はWikiより引用)
ロケットの歴史は、二次大戦後からほぼリセットされたといっても過言ではありません。
そもそも糸川氏が宇宙方面(?)に関心を寄せたのは、1927年のリンドバーグ(念のためロックバンド名ではないです)による大西洋無着陸単独飛行という偉業でした。
日本にだってできるはず!と飛行機に関心をもちますが、既に時代は第二次世界大戦に突入していたため、中島飛行機という国営会社で戦闘機の開発に従事します。
敗戦で、飛行機含めた兵器系の開発が禁止となりこの企業も解体され、今のSUBARU(当時は富士重工業)となります。
糸川氏も研究を一旦あきらめて音響や脳波の研究に転向し、そこでも才能を発揮し、やがてアメリカのシカゴ大学へ招かれます。
そこで糸川氏が現地でふれたロケット開発が、改めて空、しかも飛行機よりさらに上を行く宇宙ロケットへと向かわせることになります。
巻末の参考文献によると、そこで「宇宙医学」という書籍との出会いも影響を与えたそうです。
先ほど、ソ連のロケット開発における功労者コロリョフという名前を出しましたが、彼と並び称される天才がアメリカにいました。
フォン・ブラウンといい、ナチス支配下のドイツでV2というロケット開発を担っており、アメリカに亡命していました。
糸川氏が手に取った「宇宙医学」にはフォン・ブラウン(同い年)も寄稿しており、多いに刺激を受けました。
ちなみに彼自身はその後、当時の大統領ジョン・F・ケネディが1961年に宣言したアポロ計画で、ソ連との宇宙開発競争に勝つためにロケット開発責任者に大抜擢されます。
糸川氏は帰国後、東京大学に研究所を発足し、まずは小さなロケットから研究・開発を進めます。
その長さ実に「23cm」で、その大きさから「ペンシルロケット」と呼ばれ今でも伝説となっています。
それが日本のロケット開発における新しい門出となります。(念のため、戦前もロケット開発は行っていたようですが敗戦で開発記録は断絶)
研究を進めるうえでまず困ったのが、上空に上がったロケットが正しく動いているかをチェックする仕組みです。海外の先進国では「レーダー」を使ってましたが、まだお金がなかっため購入できませんでした。
そこで糸川氏は、「ならば水平に飛ばせば追えるだろう」と、とんでもないアイデアを出し、研究メンバーは苦心の末これを実現させます。
まだ戦後10年しかたっていない1955年の出来事です。
その後、数か月ほど水平実験で改善を積み重ねて、今度は垂直での実験をやろうということになります。
ロケットの打ち上げは自転の力を援用出来るので、東向き、つまり太平洋側が良いのですが、当時GHQ(要は二次大戦占領軍)が主要な場所を抑えていました。
探しに探して日本海沿いの秋田県男鹿半島で、日本初の垂直打ち上げ実験が行われ、二度目の挑戦で成功します。
ただ、大きさは初代より7cm大きい30cmです。ここから今の50m超のH3につながったと考えると感涙モノです。
ロケット開発の道程には、いくつか(文字通り)飛躍の機会がありました。
一番影響を与えたのは、1957年に始まった国際地球観測年の企画です。
ざっくりいえば各主要国でロケットと衛星を打ち上げて地球全体をまるっと調べつくそう、というなかなか味のある企画です。
募集時点で1954年、つまりまだペンシルロケットの実験すら行ってないなか、糸川氏は「100km(今でいうカーマンライン)打ち上げる!」と宣言し、アジア地域で唯一日本も参戦することになります。
(正直、糸川氏に呼応して集まった関係者もすごいです!素敵な時代)
そこで燃料の再開発から行われ、研究と実験を重ねた結果、通称「カッパロケット」が1958年(挑戦可能な期限のギリギリ)に高度60kmまで到達することに成功します。
おそらく名前が気になるかもしれませんが、ギリシア文字と日本人に愛着のある「河童」を意識したそうです。
この挑戦によって一気にロケット開発は進化し、その後は100kmも突破してより本格的な実験が可能な射場探しも始まります。
結果、糸川氏の最終判断で、今となっては国の宇宙開発の象徴的な場所である鹿児島県の「内之倉」に決まります。(決まったエピソードも参考書籍にとても面白い逸話がいくつかあるのでぜひ興味持ったら閲覧ください)
そして研究は進み、日本初の人工衛星「おおすみ」が1970年に打ちあがる快挙を成し遂げるわけです。これは当時の地名からとっています。
これは世界で見ると4番目ですが、大学の研究という意味では世界初の偉業となります。
このころには、糸川氏が発足した研究所は合併して「東京大学宇宙航空研究所」となり、同じころに国も宇宙開発を推進する「宇宙開発推進本部」を発足させ、NASDA、そして今のJAXAに繋がっていきます。
今の日本から見たら信じられない熱量とスピード感ですが、糸川氏をはじめとしたこういった冒険者(研究者よりこちらのほうがしっくりきます☺)が開拓した地で、今日の最新ロケット開発に繋がっているわけです。
糸川氏にちなむエピソードの締めですが、はやぶさ1号が目指した小惑星は彼の名前にちなんで「イトカワ」と名付けられています。
そこで培った実証実験が、はやぶさ2号で人類初の小惑星サンプルリターンを実現することになります。
<主な参考書籍(Wikiは割愛)>