下村脩が切り拓いた発色生物研究の内助の功
2008年にノーベル化学賞を受賞した下村脩教授の妻明美さんが永眠、とのニュースが流れています。
誤解のないように伝えると、下村教授は2018年に亡くなられています。こういったニュースは珍しいかもしれませんが、明美さんも生物学の研究に携わり、文字通り下村氏を支え続けていたことを初めて知りました。
前回の投稿で、ニューロンの特定部位に遺伝編集で色を付けて観察する、という話をしました。
この実験で使われた該当のニューロン(神経細胞)を発色させて観察する手法は、今でこそ普及していますが、この「光遺伝学」と言われる分野がまさに下村氏の功績です。
以前にこの分野の歴史について触れたので引用しておきます。
ノーベル賞受賞の決め手となったのが、一言でいえばオワンクラゲから緑色蛍光タンパク質(GFP:green fluorescent protein)を発見したことです。GFPがイクオリンと呼ぶたんぱく質からエネルギーを受けて、緑色(大体波長の長さ508 nm)の蛍光を発する波長を放出します。
専門用語で、フェルスター型エネルギー転移と呼ばれ、要は「エネルギーの共鳴」ですね。これはこれで興味深い現象です。
前回紹介したグリア細胞での実験では、GFPはすぐに分解されてしまい、該当の神経組織をGFPでマーキングして追跡することはできなかったため、赤色蛍光タンパク質(pHRed)を使ったそうです。
このGFPは、1960年代に下村氏に発見され、実に30年を経てその分子構造が解明されました。そして今では、上記のとおり他の色に発色するたんぱく質も見つかって実用に使われています。
この研究材料である大量のオワンクラゲは、妻の明美さんや長男長女も手伝って家族総出で採集し、しかもGFPの精製作業のほとんどは明美さんが担っていたそうです。
下村氏の人生をWikiで見ると、安定した日本での職を捨てアメリカに渡るなど、波乱万丈のようです。(当時と今では渡米のリスクは異なります)
上記でほほえましかったのが、ノーベル賞受賞直後にオワンクラゲを飼育していた水族館が、発色しなくなったので相談して的確な助言を本人から得て解決したというエピソードです。
相談する側もノーベル賞受賞者にこんな相談をするなんて(失礼)すごい勇気と思いますが、それに優しく応えたのは何となく人柄がしのばれます。
出生地は長崎佐世保市で最後の地もここを選んだそうです。そして死後には子供たち向けに「下村脩ジュニア科学賞SASEBO」が設置され、その名前は今でも後世に語り継がれています。
心より、下村夫婦にご冥福をお祈りします。