4月になれば彼女は を読んで
現在リゾートバイトで1人、3月のTOEICに向けての勉強とバイトとの生活。その合間に、YouTubeや読書、グルメ巡り、湯巡りが余暇としてすごく心を豊かにしてくれているのを実感している。そんな中で「4月になれば彼女は」を読んでえも言えぬ感情になったため、整理のためにも書き綴ろうと思う。
*多分にネタバレを含みます。
昔の恋愛について、美化されていることは自分もよくある。それが初恋や、人生で一番愛した経験ならば尚更。どこかで比べてしまう、どこかで続けていたらどうなっていたのかと鑑みてしまう。そんな主人公藤代の結婚まじかのどっちつかず、自分でもどういう気持ちなのかわかっていない状態にひどく共感した。
藤代は読んで思うに、聡明で場当たり上手で、社会適合性がすごく高く、条件反射的に最適解を選んできた人生である。藤代の自我のない感じというか、自分の感情をどこかに置いてきてしまい、心ここに在らず淡々とルーチンワークと化した弥生との同棲生活を淡々と描写している。9年前のハルとの恋愛に全てを置いてきてしまったように感じる描写。それを読むとともに、自分の今の恋愛はどうなのだろうか、心に昔の人がいる、それを強く感じてしまうため、前半は読んでてどんどん心が苦しくなり、飲まずには次に進めなかった。
後半、人生で1番と言ってもいいほどの愛を共有していたハルが亡くなる。あの頃追いかけていたら、こうしていたら、たらればがぐるぐる回る。そんな藤代の描写を見ていると、自分の中で一番愛が深かった人に、会いに行きたいと思う気持ちが沸々と湧いていることに気付かされる。あって何をしたいわけでもない、昔話や今の話しをしたいわけではない。ただ、お互いの存在を見つけあって、ただ同じ空間を5分でいいから共有したい。そんな気持ちだった。最後のハルの手紙を読むまでは、
ハルの最後の手紙にある、
「私は愛した時に、初めて愛された。「私の愛」と「あなたの愛」が等しく重なっていた時はほんの一瞬。避け難く今日の愛から、明日の愛へと変わっていく。けれども、その一瞬を共有できた2人だけが、愛が変わっていくことに寄り添っていけるのだと思う。
さようなら。
今フジが愛する人がいて、その人がフジのことを愛してくれることを願っています。例えそれば一瞬だとしても、その気持ちをともにした1人の人間として」
この言葉に深く深く色々なことを考えさせられた。
物語の途中、引き合いに出された映画「卒業」。結婚式に乱入し花嫁と駆け落ちてバスに乗ってクライマックスを迎える映画。確かに、その瞬間、2人の愛は重なってとてつもない幸せの中だとは思う。ただ、そのあとは間違いなく停滞か下り坂だ。愛が減っていく。好きという気持ちが減っていく。日々のルーチンワークに埋もれて、自分の気持ちがわからなくなる。それはそうだ。刺激的な日々を求め、自分の欲求を充足する
日々を求めるのは。ただ、こと恋愛においては、それが悪いことではない。愛が減ったわけではない。形を変えてより大事なものに変わっているだけ。それが亡くなった時に本当に気づく、人間って本当に愚かな生き物なんだと戒められた気がする。
自分の中に、昔の人に会いたい気持ちがあり、前半膨らんでいたが、読み終わってみると、本当に今の人を大事にしたい、しよう、愛が重なる日を、重ならなくてもお互いを愛し合おうそんな気持ちが沸々と湧いてきて、本当にこの本と出会えて良かったと思った。
4月から海外へ行く。その中では、本当に愛が希薄になることもあるだろう。その度に、藤代の、ハルの、弥生の3人の関係を思い出そうと思う。
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