倫理と論理-倫理観をどう育むか(5)-
これまで、倫理観をどう育むかということで、4回にわたって書いた。
前回の話はこちら。
ただ、これまで、倫理という言葉について書き漏れていたので、それを考えたい。
考えるための素材に、字形の似ている「論理」も合わせて、「倫理と論理」でこのシリーズを締めくくりたい。
倫理という授業が高校の頃にあって、論理と似た形をしているなと思った。似ているものには何らかの関係があることが多く、その差を理解すると言葉の味わいが変わることがある。
以前、論理について書いた。
論理とは「筋道が通っていること」だ。
この倫理観のシリーズでは、パンダのリンリンをカバー画像にしていた。檻に入っているパンダを使ったことがあるが、この「檻」の画像は実は意図的に使っている。
実は、論という漢字と、倫という漢字に共通する右側のつくりには、短冊などで使われる冊という要素が入っている。一冊、二冊などと冊子を数える際にも使われるものだから馴染み深いのではないだろうか。
この冊とは、「(紙を)何枚も重ねたもの」と理解するとよい。縦線が紙、横線が綴糸と考えると、この形状の意味がわかる。
論理もそういうものだ。要素を一つ一つ関係で積み重ねるから、始めから終わりまでのすじみち(あえてひらがな)が通るのだ。
では、倫理はどうだろうか。倫の文字を使った名前に倫子(みちこ)などがある。「みち」と読むことがあるのだ。だから、「みち」の「ことわり」が倫理であり、道理(これもみちのことわり)なのである。そして、人偏だ。つまり「人の道」こそが倫なのであり、人として筋道が通っているなのだ。
論理と倫理は別な言葉に見えるが、こうした一本の糸で繋がっている。
もちろん、何が正道かに正解はないから自分の善を信じるしかないが、少なくとも悪行として定められただけはしないことを心に標として置いて生きていたいものだ。
12/26追記
侖という文字の意味も知りたいという質問をもらった。侖は「ろん」と「りん」とも読む。訓読みだと「侖う」と書き、「おもう」と読む。順序立てるという意味もあるそうだ。漢検一級レベルの漢字らしい。