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岩手旅行記(4)-遠野で語り部から昔話を聴く-

観光案内所で博物館と伝承園をオススメされた。まずは駅から近い遠野市立博物館に向かう。ここは母が話していた鍋倉山の麓だった。若い頃に遠野中学校の友達と登ったところらしい。昔は、鈴蘭が綺麗だったそうだ。


スタッフの方がとても親切

タイミングがよく貸切状態。冬は空いているのだという。常設展は興味深いものだった。

館内は撮影可でかなり雰囲気ある展示が多かった。

「家の神」という特設展で、この地方を中心とした家の神---ざしきわらし、オシラサマとか---についての展示があった。

オシラサマの写真を見たことがあるが、見る写真ごとに見た目が違っていてわからなかった。わからないものには興味をそそられる。展示にも実にさまざまなオシラサマがあった。特に遠野に限ったものではなく、関東から青森まで幅広く分布するそうだ。

神や妖怪は心理の投影

僕自身には特定の宗教はない。ファンタジーもオカルトも、スピリチュアルも自己啓発も悲しいかな拒否感が強くて受け付けない。

ただ、存在しないであろうものをなぜ創り出したのか、その時代にそれがなぜ必要だったのかを考えるのは謎解きのようなもので好きだ。

願いとその裏にある欠落や欲、わからないことへの恐怖、つらい現実からの逃避、割り切れないことへの理由付けなど色々と想像してしまう。

大人になって妖怪の話をすると子供じみていると思われそうだが、妖怪は実は高度な抽象概念だ。

現代の会社にも社会にも、妖怪の姿をしていない妖怪は多々いて、それを退治するような仕事をしていると思うときがある。心理療法にも妖怪療法というものがあるくらいだ。

最近だと、コロナでアマビエが流行り、異形にミャクミャクさまと命名されるなどの心理に驚かされたが、現代でも神や妖怪的なものは薄く根付いている。

語り部の存在を知る

さて、僕は博物館で図録やおみやげを買う。こうしたときはスタッフの方と話すチャンスだ。

お土産に買った豆本遠野物語

スタッフの方がいうには、とおの物語の館というところがあり、語り部が13:00から20分間話をしてくれるという。冬には1日一度しか機会がないとのことで旅程を組み直す。

伝承園で食べようと思っていた郷土料理ひっつみを諦め、ジンギスカンに変更した。(次回はジンギスカンの名店「あんべ」もチャレンジしたい)

ラムホルモン、ラムタンは牛タンより美味しいという人がいるそうな

語り部の話を聴く

雪道を車を走らせてたどり着いたとおの物語の館は、母が住んでいた場所の近くだった。仙臺屋の話を聞いていて、館はまさかのその向かいだった。

館では、語り部とそのお弟子さんが昔話を聞かせてくれた。まずはお弟子さんが短い話を2つ。語り部が聞き手に代表的な昔話の3択を迫り、年配の男性の希望でオシラサマとなる。オシラサマの内容は以下で聴くことができる。

オシラサマは異類婚姻譚で、娘と馬のラブストーリーで、引き裂かれる悲恋と、後半でなぜか養蚕に繋がるやや論理展開が難しい話だ。詳しくは上のサイトで見てほしい。

語り部はプロで、「昔あったずもな」で始まり、「どんとはれ」で終わる物語を、雰囲気たっぷりに語ってくれた。こたつのある座敷に10余人が集まり語りを聴く感覚も新鮮だった。

この体験はプライスレスだと思う。他にも、この館は昔話の動画コンテンツが豊富なので、お子様がいる場合はこちらが楽しいと思う。

オシラサマとは

そして、この話を聞いて、ようやくオシラサマの意匠の意味がつかめた。

以下がオシラサマで、娘と馬が一対になっている。そして、養蚕による織物を羽織っているのだ。対になっているのは結ばれなかったものを結びつけたからで、年に一度「遊ばせる」決まりがあるらしい。

以下の雛壇を見ると、オシラサマではなくお雛様にも見える。これらにも関連があるという説もあるらしい。

この姿だけではなく、頭が出ている写真のもの(貫頭型)と、頭が隠れているもの(包頭型)があるが、頭が隠れているものもおそらく中には馬と娘がいるのだろう。

頭が隠れているものも博物館でいくつか見たが、まるで蚕のようなものもあった。それが養蚕関連である強い感覚になる。

養蚕神は日本の神様の代表格なので、それとのつながりも感じた。

伝承園のオシラ堂

伝承園にむかう。ここには、菊池家の曲り家があり、そこにオシラ堂という空間がある。

そとからはこう見えるが
中はこうなっていて
圧巻の空間がある

今も伝承が息づく

このオシラサマの驚くところは、過去の話ではなく、現代でも多くの家で祀られていることだ。

呼び名もたくさんある。役割も、形も。

役割には、養蚕、目、お知らせとある。お知らせはオシラからの連想と夢枕に立ったことから来たものだろう。オコナイとオクナイは音が似ているが、屋内は漢語だからオコナイが訛った感じがする。行いは、性を連想させる。目についてはわからないがかつては巫女や歩き巫女がオシラサマを信仰していたりしたそうだ。巫女は盲目のことがあるし、見ていないことを伝えるお知らせの機能もあるから、目が見えない代わりに遠くを見ることと関係があるのかもしれない。

次回は山口集落について書くつもりです。多分、次回で遠野の話は終わりかな、

前回はこちら。


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