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全体像と全体図

先日読んだ本に、全体像と全体図の違いが書いてあった。

そもそも自分は「全体」という言葉を怪しく感じている。僕にとっての全体は視座が低く、誰かの部分かもしれないし、僕にとっての部分はより視座が低い人にとっての全体かもしれないからだ。

全体を定めようという試みがうまくいくことはほとんどなく、あるとするならば地球規模の絶対的な大きさ(地球が全体かは別としてとにかく大きいことを言いたいが、言葉を知らない)か、誰かが意図的に切り取って決めた全体しかない。

だから、あるとするならば、範囲を決めて全体とすることが多いだろう。例えば、プロジェクトでは範囲を決めるし、絵画なら用紙の範囲の中に書くと決まる。これが、意図を持って決めた全体だ。

まれに、いつまでも完成しない絵画や建築物というのを見聞きするが、裏返すと範囲が決まらない限りは完成しないともいえる。

ここでいう範囲を全体図という。文字通りビッグピクチャーだ。では、全体像とどう違うのか。全体像とは全体を概観するものだ。例えば枝葉を削ぎ落とした図解などは全体像を表す。しかし、削ぎ落とされているため、全体図を表すことはない。さらに言えば全体図と全体像は似た言葉だが軸が異なるため、比較が難しい。

例えば、口頭で全体像を説明することはできるが、全体図は説明できない。全体図を説明するだけでは、その全体像はわからない。

「この絵です」は全体図だが、「これが書いてあります」は全体像だ。像とは象り、すなわち形-取りなのだ。無論、像以外が全てベタ塗りといった場合、(塗りに意味があることもあろうが)概ね像と図は一致する。しかし、そうでないものの場合、像と図は一致しない。

余談

ここまでが本筋で、ここからは余談だが、完璧主義には、範囲内での質を高めることと、範囲外に飛び出して質を高めることのいずれもがある。

どちらがよいか。ここには多くの議論がありそうだ。

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