東京で俳優をしていた僕が地元に帰った理由
先日、高校で一緒にサッカー部だった友達に3年ぶりに会って、彼は高校の頃から定期的に会ってずっと僕のことを見てくれていて、『今、何故、地元静岡県掛川市で農業と狩猟と俳優をしているのか』を説明するのに喋りっぱなしで2時間くらい掛かりました。
自分でもタイムラインとトピックが絡み合いすぎてぐちゃぐちゃになっていると感じたので、ここに今こうして生きている経緯をトピックごとに書いて、これを読んでもらったら皆に伝わるものにしたいと思います。
18年ぶりにまた掛川で生活をしだし、これから会う初めましての人に対する自己紹介として書きます。
あと最近、言うことが宗教じみてるって言われたり、説教くさかったり、エコお化けみたいになっていますが、僕自身は全然エコに生きられていないし、僕が一人で、もう出来上がっている資本主義社会のシステムからちょっとだけ外れようと試みていることで、逆に自然環境的にはマイナスに働いていると思います。大前提としてめちゃくちゃ楽しいからやっています。ただ、以下に書いたようなことを考えながら、試行錯誤して、楽しみながら幸せな生活を送っている僕が表現者であることだけが、地球平和に繋がると信じています。
仕事とお金の関係
かなり前に、彼女と富士急ハイランドに行き、フリーパス+各アトラクション1000円を払えば並ばずに乗れるファストパス的な1000円を僕は払えませんでした。だから、毎度並ぶのですが、同い年くらいで1000円を払って並ばずにいく人がいました。僕は並んでいるうちに彼女と喧嘩になったりしました。「僕とあの人の違いは何なんだろう?」と思いました。僕はその当時、ある程度、俳優としての自分の仕事に誇りを持っていました。しかし、「1000円も気持ちよく払えない僕の俳優としての仕事は社会的に価値がないということだろうか?」とお金で自分の仕事の価値を図ろうとして疑問に思いました。このころから社会的な作品とかに自分の存在意義を見出したいみたいな感じになった気もします。30歳くらいの頃かな。
あとTVCM撮影半日と演劇1ヶ月強の、仕事のギャラの違いもあるし、時給1100円で人間の限界を超えた飲食店のアルバイトと、時給いくらかわからないけどいっぱいもらえて働き方にも余裕のある空調の現場仕事の違い。
物の値段
ペットのコザクラインコの梅ちゃんは、年に数個、卵を産みます。(久ヶ原に住んでいた時は産んでいたけれど、二子新地に越してからは一度も産んでいない、歳のせいか、騒音とかの環境のせいか、環境ならば掛川に越してきてまた産むかも)
卵を産む頃の神経質さ、ストレスフルな感じからすると梅ちゃん的にはかなり大変なことです。体と卵の大きさを比べただけで大変なのは容易に想像が付くし、カルシウムとか栄養もかなり持っていかれると思います。
そこで、鶏の卵が1個20円くらいで安い時には10円くらいって安すぎるでしょと思って、何かがおかしいと思って調べると、安い卵は身動きできず日光浴もできない劣悪な環境で消毒なんかを噴霧されて何とか生き延びている鶏がハイペースで産んでいる物だと分かりました。
それでは、と言って幸せな鶏の卵を買おうと調べると、放牧卵という放牧されている鶏の卵は1個200円。僕には買えません。買えるけど、買いません。だからと言って食べませんとはなりません。結局安い卵を食べています。鶏の幸せを搾取しています。
よく俳優は若い頃にチケットノルマがあったり、ノーギャラでもネームバリューのためにやるとか、ありがちだと思うのですが、それが「やる気の搾取」です。僕がそういう経験をしてきたかっていうとそうでもないと思いますが、俳優をやりたい人が多いのでそういう搾取はおきがちだと思います。だから搾取に敏感だし、したくないって思っていますが、僕が今フラフラしていられるのも世界中から搾取した賜物です。
話がそれましたが、肉も安すぎなので(安いのは100g100円以下、僕なら65kgで6万5000円、歩留まり率30%なら正肉19.5kgで1万9500円)きっと動物の幸せを搾取した値段です。
あと、他の都道府県で育てられた野菜の値段や、海外から入ってくる物の値段が考えられないほど安いのも何かおかしいと思います。
俳優
僕は高校2年の時、北野武監督「キッズリターン」を見て、エンドロールの『安藤政信(新人)』の(新人)になりたいというミーハーな気持ちから俳優とボクシングを始めました。ボクシングはなんだかんだあって、結局、後楽園でデビュー戦1R7秒TKO負けで終わりました。(新人)にはならずに「キッズリターン2」も公開していました。
以下俳優としての紆余曲折
(2001~2004)大学時代、人のいいなりで頭を使わず演技をしていたら、楽しくなくて4年で鬱っぽくなる(他の要因もあります)、女優さんにいわれもなく「好物じゃがいもだよね?」と言われて、自分はイケメンじゃなく芋顔だと気付く。
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(2004)今所属している劇団、快快(FAIFAI)の前身「小指値」の旗揚げ公演で、「人間の形をした猿」という役で自由に演技をする面白さ、演劇の面白さを知り、そのままの方向性で続ける。
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(2005)身体に興味を持ち、パパ・タラフマラの養成所に1年通い、振り付けられるのは苦手だと自覚する。
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(2008)小指値から快快に改名し、海外ツアーにたくさん行き、快快の活動がとても忙しくなる。〜役を演じることに面白さを見出せず、俺は俺しか演じられないと気づきだす。
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(2014)ふと、全然映画デビューに繋がらない道を歩んでいると思い、事務所を紹介してもらうが、オーディションが辛いのと全然受からず嫌になる。それと同時に一緒に作品を作りたい人や出たい作品を探すため映画や演劇をたくさん見るがあまりいないし、いても縁がない。
(2014)SPAC「マハーバーラタ」を観て驚いたり、
(2015)手塚夏子さんの作品を観て面白すぎてWS受けたり、
(2016)利賀村に鈴木忠志さんに会いに行ったり、
(2016)松本雄吉さんの追悼公演を観に行き、雄吉さんがむしゃくしゃすると人の庭に花の種を入れた泥団子を投げ込んでいたという話を聞いたり(これは農業のトピックで大事)、
(2016~2017)技術面で演技を習得したいと思い、鳥公園に頻繁に参加したり。
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(2017)もう一度俳優として食っていこうとしてみようと串田和美さんが開いたシアターキャンプに参加し、松本で3週間、演劇の俳優WSを受けるがだんだん辛くなる。芸能事務所「鈍牛倶楽部」に入りたいという邪な理由もあったが、講師で来ていた長塚圭史さんに「俳優はどんな仕事でも面白がる能力がないと辛いよ。」と言われ、俳優で食おうとするのは苦しいしやめようと思う。あとちゃんと演技ができる良い俳優はすでにいるから(そこに一緒に参加していたTCアルプの武居卓さんとか)俺がならなくてもいいと思ったし、良い俳優になるための努力を俺は惜しむ。
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なんでもは面白がれないし、グループワークは面白がれないと辛いから、とりあえず自分一人で作品を作れるようになろうと作ってみる。あと一人でやる時、生演奏で楽器ができるといいからとトランペットを始め、毎日多摩川で練習をしだす。東京は人が当たり前に心地よく生活するには、人が多すぎると気付く。多摩川河川敷で野生のトマトが群生しているのを見つけて大興奮したことで、自分が農業に興味を持っているのは俳優からの逃げ道ではなく、素直な欲求だと認める。
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(2018)田中泯さんの踊りを東京芸術劇場前で観る。久々に作品を見てグッと来る。泯さんの身体の美しさ、農業をしているというところ、もうじき野外劇場にするための工事が始まる池袋西口公園で踊りながら「このコンクリートの下に何があるか知ってるか?土があるんだ!ざまあみろ!」と発した言葉、終わった後に「みんじゃが」という自分が育てたジャガイモや野菜を売っていること、テレビや映画にも出ていること。自分も真っ当に生きて魅力的になれば、人前に自信を持って立てる=良い俳優になれる、と思う。
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(2019)映像の仕事にこだわらなければ関東に住んでいる意味がないので、地元を拠点に仕事(主に舞台)がある現場へ赴き滞在するスタイルに変えることにする。
地元掛川で演劇をやりたいと思わない。東京ではストレスや鬱屈から勝手に舞台に上がるテンションというか表現するギアに上がるし、東京や都市部で生活をしている人には伝えたいことがある。僕の表現したいことは掛川で出てくるんだろうか。出てこないで、生活に満足ができるならそれはそれで良いし、どんな作品を作りたくなるのか作りたくもなくなるのか試したい。
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(2020)実家のそばで作っている畑(自分の考える楽園、としての公園、としての農園、がコンセプト)が僕の掛川での初作品だと気付き、フラフラしている変なおじさんとしての地位も確立しだし、俺は無名のアーティストとして生きている!と実感する。
農業
(〜1995)幼い頃から父親が小さな畑を家の近所で借りて家庭菜園をしていたので、良く遊びについて行って、小学生の頃は自分で育てた大根を1本50円とかで母親が買ってくれたりしていて畑に馴染みはあった。
母方の祖父母の家もチャボを飼って卵を採ったり、家庭菜園もやっていて、山には果樹も植えてあった。
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(1999)自分が高校2年の時、父が他界する。その頃には、実家の前の茶畑を両親が、僕がいつか家を建てる用(末っ子長男なので)に買ってくれていて、父はそこで家庭菜園をしていた。
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(2001~)僕が俳優に憧れて、東京に行き、将来地元に帰ってくることはないなあということに罪悪感を感じて、なんとなく、立たない家を待つ土地が申し訳ないので、帰郷した際は申し訳程度に畑をやるようになる。
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(2016)母が病気をしたのをきっかけに帰れるときは月1程度で地元の掛川に帰るようにする。
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母の病気が珍しい症状だったので、原因が思い当たらず、自分が適当に使っていた農薬のせいなんじゃないかとかいうところから世の中に出回っている食品や民間療法など溢れる情報に疑心暗鬼になる。母が「家の畑で採れたものは身体にいい」と信じるならばそれが一番大事なので、月1で帰郷しているし無農薬でできるだけ実家の野菜を畑で補えるようにしようと本格的にやりだす。
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(2018)千葉の友人の新居で畑をやりたいということで、手伝いだす。そこで自然農法の本を読み、無除草(草を抜かない)、不耕起(耕さない)というやり方があることに驚き、試しだす。
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(2018)友人に、松本雄吉さんの花の種を入れた泥団子の話から、その元祖が福岡正信さんだと教えてもらい「わら1本の革命」を読み、自然農法や福岡さんの哲学に心を掴まれる。土が人為で死んできていて、今の主流の農法は、石油エネルギーに頼ることでなんとか回っていることを知る。そしてうろ覚えで申し訳ないですが1エーカー(4反=1200坪=サッカーグラウンド1つ分)か1反(1000㎡)で自然農法をすれば、一家族が十分な地域活動をする余暇を持ちながら生活をできると書いてあって、これを試したいと考えるようになる。米作りや養蜂を試す為、人と土地に一番ツテのある地元にとりあえず1年帰って、どんな生活を作れるか試すことを決める。
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(2019)福岡さんが考えた米麦不耕起直植農法を試してみたいと思い、福岡正信自然農園に農業研修に行く。そこで働いている人たちは地に足がついていて、足るを知っていた。福岡さんが開発した「ハッピーヒル」の籾と麦を分けて頂く。
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親戚のおじさんが放置している田んぼを4畝(400㎡)借りて、米麦不耕起直植農法を試しだす。
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地元掛川に住民票を移し、父親が昔借りていた田んぼの地主さんに挨拶に行き、放棄されていた畑(お茶畑、果樹付き、850㎡)を借りる。
掛川の農家さんで有機農業の人たちを友人に紹介してもらう。
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野口勲さんの「種が危ない」を読み、F1の種ではなく固定種の種を育てて自家採種したいし、自分の畑の中だけでサイクルしたいと思い、埼玉の野口種苗店で2020年に撒く用の種を買う。
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(2020)畑が広くなり自家消費には十分すぎるので、デザインに迷いだし、ビル・モリソン「パーマカルチャー 農的暮らしの永久デザイン」を読み、感銘を受け、パーマカルチャーも取り入れる。
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パーマカルチャーを取り入れることで、畑が複雑でおもしろい感じになり、公園のような要素も出てきたので、ゆくゆくは友達とお茶したり、姪っ子とピクニックしたり、近所の子供達が遊びに来て野菜を育てたり果樹を採って食べたり、お母さんがちょっと足りないハーブや薬味を取りに来たり、開いた場所、僕なりの楽園にしたいと思い、これを僕が地元で作る初めての作品にしようと思う。
狩猟
上記したように、資本主義における物の値段と、搾取に支えられた僕の生活。俳優として食うことをやめたこと、でもお金がないと人や動物、自然から搾取して生活するしかないというジレンマ。
(2018)千松信也さんの「ぼくは猟師になった」という本に出会い、「スーパーで肉を買う代わりに山に獲りに行く」という考え方にすごく感銘を受け、わな猟の免許を取得する。幸せな動物の肉をお金を介さずに食べるにはどのくらい自分が働かないといけないのか、そもそも自分は殺せるのか、やってみて殺せないとなって肉を食べるのをやめるのか、卵のようにすぐ忘れて安い肉を食べるのか、試したい。
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住んでいる神奈川でやりたいと思い、近所の銃砲店を訪ねたが、わな猟師さんは紹介してもらえず、地元でやることを勧められる。
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地元の銃砲店、市役所を訪ねるが住民票がないと地元の猟友会には入れてもらえないということで親戚づてで猟師さんを紹介してもらう。ぼくが進学校を出て大学にも行っているということで、酔った猟師さんたちはバカにして取り合ってくれず、一人でホームセンターで罠を作り、親戚のおじさんの山に罠を掛けだす。意外とすぐに鹿と猪が掛かったもののどうしていいかわからず猟師さんに色々手ほどきを受けて、1ヶ月ほど猟に同行させてもらう。
猟師さんの家には一升瓶がずらっと並んでいて、野菜、椎茸、魚、果物も沢山ある。普段、いろんな人を助けているから、そのお礼の品や友人にもらったものらしい。僕もお礼の品は日本酒一升だし、まだまだ物々交換が盛んなのが良いと思う。地元掛川市の豊かさに気付く。
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山に頻繁に入るようになり、環境問題が気になりだす。江戸時代は禿山ばかりになった山がここまで回復したのは、石油エネルギー、植林、海外からの木材の搾取によるもので持続可能なものではない。
今は9割以上がただゴミとして処分されている鹿と猪も、森が更に荒廃して、食糧危機も相まって皆がジビエだ狩猟だとなればあっという間に減って、やっと想像がついた「自分と周りにいる人の幸せな生活」もすぐ崩れ去ると気付く。自分達だけの幸せを守ろうとしたら、自分達の幸せも守れない、からの、地球平和
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(2019)年明けから、「もう一人でできるだろう」と言われて、一人でやりだす。解体も市街地の実家の車庫でやっていたから、色んな反応があったが、僕は「こんな生き方もできるよ」と人(特に子供)に見せるのがテーマだったので本望と思う。
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千松信也さんのお宅にお邪魔して、色々拝見しご馳走になる。畑があり、野草が採れ、裏山で肉が獲れて、養蜂もしていて、市街地にも近く、理想的な住環境だと思い自分もこんなところに住みたいと思う。
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二期目の猟、罠を改良して2週間で鹿2頭、猪1頭が獲れて冷凍庫がパンクしたのと1年目でどのくらいの肉を獲ったら1年間肉を買わずにもつかわかったので、去年肉を欲しがっていた人やお世話になった人に送る。お返しに素麺や酒やパンツをもらう。物々交換ができて嬉しい。畑の収穫物があったので、猟師さんへのお礼もそこからできるようになる。
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(2020)年末から年明けの脂がのった猪を1頭獲って今期の猟を終える。大分去年に比べたら時間効率が良くなった。「肉を売ってお金にすれば?」と言われるが、僕は自分と周りにいる人が食べる分の動物を捕まえて殺して肉にするという仕事は請け負いたいと思うけれど、お金をもらって他人の分までやりたくない。猟を始めて10頭仕留めたけれど、殺すのはいつまでも辛いと思う。
DIY
僕は両親共働きの鍵っ子だったので、毎日父方のおじいちゃんが幼稚園まで自転車で送り迎えをしてくれていました。だからすごくおじいちゃんっ子でした。おじいちゃんは、僕が大人になってから人に聞いた話によると、鋳造の工場で働いていたようです。とても貧しい家庭環境だったようで、父は一度養子に出されそうになったところを泣いて『働くから!」と訴えてなんとか免れたようです。おじいちゃんと鳥の図鑑を見ていると、これは捕まえて食べたなあと言っていました。おじいちゃんは竹とんぼを作ってくれたり、黒のマジックで竹林の絵を描いてくれたりした思い出があります。そして、道具がいっぱい詰まった小屋を持っていて、他界する前にノミ一式をくれるような人で、なんでも自分でやっていました。父も電気工事の仕事をしていて、フローリングを張り替えたり、ペンキを塗ったり、犬小屋を作ったり、とにかく家のことはかなりなんでもDIYする人でした。僕はそんな血を引いていると最近よく言われます。
幼稚園から中学校に入学するまで、幼稚園で「しぶたれ先生」と呼ばれている図工の先生が開く図工教室に通っていました。しぶたれ先生は長めの黒髪を輪ゴムで留めているような今思えば一風変わった先生で、基本幼稚園に行ってそこにある材料で好きなものを作っているだけの教室でした。僕は山下清に憧れて、ある時期ちぎり絵ばかりをずっとやっていた気がします。父に連れられて行った山下清展の影響だと思います。
父が連れて行ってくれた展覧会は、山下清展と確かタイから来た人間の標本のものだったと思います。
夏休みの特別講習では、木製の打楽器を作ったり、藍染めをしたり、金属板を石で叩いてお皿にしてカレーを食べたりしました。あとピカソがすごいのは正面と横の顔を組み合わせたところだと教えてくれたのもしぶたれ先生でした。
前置きが長くなりましたが、
(1982~)まず血筋(生まれ育った環境)
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(1985~1995)図工教室に通う。
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(1999~)父が他界し、家の力仕事をしだす。
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(2001~)美大に通い出したことと、演劇を始めて色々技術を習得&お金が無く節約。
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(2010 ~)実家が経年劣化で色々ガタがきているのを直したり、快快の舞台美術の文美さんとシェアハウスをやり、家は好き勝手にいじっていいものだという考えになる。
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(2018)服部文祥「アーバンサバイバル」、ダニエル・L・エヴェレット「ピダハン」を読むことで、「器用貧乏」とずっと言われてきたが、それが楽しければ蔑む必要がないし、DIYを肯定的に捉え出す。
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(2018~)狩猟や畑をやることでのDIYの必要性の高まる。最悪、お金を介さずとも食料がどうにかなりそうと思え、「お金を稼ぐ職業」という概念から解き放たれ、生きる術=DIYとなり、更に意欲的になる。
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(2019~)農業研修に行き、百姓=百の姓を持つ=色んな仕事ができる人という話を聞き、更にスキルを高めたいと思う。地元に帰り、友人の仕事を手伝うことで金属も扱えるようになり更に幅が広がる。