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初期設定の愛 52.ジェットコースター 祖母ヘの謝罪 こんくらべ

女神からの既読無視の開始の後、社会生活を送るための最低限の正気は残された状態ではあるが、、ジェットコースターのようなエネルギー循環が始まっていた。
変性意識? いや、そんな甘いものではない。

エネルギーがぐわんぐわん、ぐるぐる回る。引き潮満ち潮、これを繰り返しながら、24時間続く。

言語化しずらい不思議な現象が続いた。

人の形状をした女神のエネルギ―?が垂直に私の体にしみ込んだ。ゆっくり垂直に下降し、筆者の身体と一体化した。なぜ女神のエネルギーだとわかるのか? これは、疑いないとしか言えない。この現象のあいだ、女神のことしか頭の中、いや全世界に女神しか存在していない。
乾燥パンに人型の液体チョコがしみ込んだような感じだ。しみチョコラスクになった気分だ。これは4月の後半くらいだった。
これで伝わるのだろうか?

朝方、一度目が覚め、二度寝に入りかけた時だ、夢でも錯覚でもない。ベットで上向きに横たわりながらも、しっかり目覚めていた時に起こったのだ。昨年4月下旬くらいのことだ。

それ以降はさらに強く、四六時中、頭の中を女神が占領している。
頭の中や体の中に張り付いて取れない。

物理次元での交流はなくなったが、エネルギーでの交流が激しくなっている。

これは経験者にしか理解できないのだと思う。
とにかく激しく交流している。

この状態がいつまで続くのだろうか。終わりが見えない。
永遠に続くシャトルラン(注1)をやっているような気分だ。

蕁麻疹が突然全身を覆う。背中が痒いのでかいてみたのだが、どうも痒い範囲が広いのだ、裸になり鏡をみると、全身が真っ赤である。
いそいでアマ〇ンで、塗り薬を発注したが、到着前に完治していた。二日後に、魔法のように突然消えた。

左手の突然のしびれ。これは一度だけだった。

夜中に必ず、一度目が覚める。そこから女神が頭の中をかけめぐる、あまたの中で猛烈に女神が暴れている。これが朝まで続く、夢なのか幻なのが現実なのか、もうわかない。
何が起きているのだ。いつまで続くのだろうか。

前述の昨年8月中旬のヒプノセラピーを受けたのをきっかけに。明らかにフェースが次の段階へ。

深い場所へどんどん沈んでいく感じ、
フワフワとただ漂っている感じ。
これが交互に、いや同時のときもある。

少し前の春から夏前くらいまではまだ、おこしなことに巻き込まれた。
そんなことを客観的に観察する視点があった。

夏の終わりごろからか、もう、そんな余裕がなかった。

8月中旬から9月末までの記憶がほぼない。夢の中を彷徨っているような状態だった。意識が朦朧としてはっきりしない。

確かに、起きて、トイレへいき、食事をし、入浴もしている。ちなみに仕事はしていない。いや仕事のことは一切頭に浮かばなかった。

この時期に、“実はね~、もう君は死んでるよ。” そう死神にいわれれば、納得できただろう。こっくりうなずいて、彼の後をついていったと思う。 “生きる屍”だ。きっちりと表現しきれないのがもどかしい。

小生は自営業者だ、いわゆる一人親方といえばわかりやすいだろうか。この間は売上は完全にゼロだった。仕事の電話もならない。メールも迷惑メールばかりだった。でもまるで、気にならなかった。というより、そんなことを気に病むほどのスペースの余裕が心の中にないのだ。仕事や家庭生活に意識が向かない。ただ漂っている雲や霧のようでもあったろうか。


8月のお盆休み後半くらいだ、Aさんのヒプノセラピーを受けた少しあとくらいだった。
家族は妻の実家へ帰省していて、自宅で一人だ。
自宅の裏の作業場、普段ここで機械の組み立てやら修理をしている。これが本業だ。

精神も肉体も、もうフラフラなので、まっすぐ歩けない程だが、比較的まともな状態の時間帯もあり、その間はできるだけ、何か作業をするようにしていた。

濃い目のインスタントコーヒーを大量にのみながら、作業場で機械の組み立てをしていた。スマホで音楽を聴きながらだ。
たしか、そのころは ”カネコアヤノさんの曲” をリピートしていた。


涙がこぼれる。溢れる、どばどばと滝のような涙が落ちる。
しずくが機械の上に落ちる。

紙タオルで、機械の涙をぬぐった。

その時、突然、脳内に映像が流れ始めた。

ーーーーー

小学2年生、土曜日の放課後だろう。
昇降口から、飛びだすクラスメイト、いつもの仲間だ。

昇降口の前は広いスペースだ。

3-4人くらいだったろうか。だれかがという訳でなく自然にサッカーが始まった。

給食着の入った袋、これをボールにしてだれかが蹴り始めた。
土曜日はみんな給食着入りの袋を、持ち帰る。家で洗濯をしてもらい、月曜日にまた、それを持って登校するのが恒例だ。

どうせ家で洗濯するのだ。クラスでは一番おとなしいC君の給食袋だ。周りにいた友達も、どんどん加わり10数人くらいになっていた。みんなで輪になり、蹴鞠のようにして遊んでだり、だれかが、蹴って走りだせば、みんなでそれを追いかけた。いつものノリだ。遊びなのだ。

おそらくそれを見ていた女子が、職員室の先生に伝えたのだろう。

学校で一番の古株の女の先生がやってきた。確か定年後だが、嘱託の書道の先生だった。

すぐに他の先生も数人参加して、全員教室で一列に並ばされた。

「あの〇〇先生のお孫さんが、まさか、こんなことするなんて。びっくりしたわ。」「ほんとに信じられない。あなたが、みんなを止める立場なんじゃないの?」
「どうなの?・・・何か言いなさい!」

開口一番、この古株の先生にそういわれた。
私だけをにらみつける。

これには理由がある。
私の祖母が、小学校の教師だった。定年まで勤めたようだ。教師になったのは戦前のことだ。

イメージ写真

この古株の女の先生は筆者の祖母のかなり後輩にあたる。
同じ学校で何年も働いていたようだ。

そのことは、事あるごとに、この先生から聞いていた。
祖母のことを尊敬する先生だともいっていた。

おばあちゃんの信用、誇り、威厳、そんなものを、自分が全部ぶっこわしてしまった。そんな気がした。

嫌な気分になった。小学生時代で一番最悪の瞬間だった。

自慢の祖母、祖母のことが大好きだった。
きりっとしたたたずまい。細身の美人だ。

このことは、当時、祖母にはももちろん母にもだまっていた。
絶対に知られたくなかった。この出来事は隠し通した。

自分の心の中に封印していた記憶だ。

半世紀ほども過去のこと。

その祖母は、筆者が高校生の時に亡くなった。

「おばあちゃん、ごめん。 おばあちゃんごめん、ごめんなさい。」「C君ごめんなさい。」
 声にだして、何度もあやまった。

やっと謝れた。昨年8月のことである。筆者は55歳。

涙を拭く余裕はない。まだ涙は溢れている。

スマホからは ”カネコアヤノさんの抱擁” が流れていた。
当時良く聞いていた。この曲を聞くとすなおに泣ける。気持ちが落ち着く。そのままでいいよ。といわれているようだ。


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小学2年生、このころは、ちょうど、訳があり、祖父母と暮らしていたころだ。

少々もめて、家出をした。
父は、家では毎日ビールをのんでいた。酒屋さんがケースで配達していた程のビール好きだ。毎日麒麟ラガーの瓶ビールを2-3本は飲み干す。

時々、酔った父がおかしな要求をすることがあった。
夜8時、入浴も済ませ、すでにパジャマ姿の当時小学2年生の筆者にクリームパンを買ってこいという。しかもメーカー、銘柄指定だ。1つでいいから、そうせかされる。

しぶしぶ、着替えをした。母がだまって、100円玉ひとつ私に握らせた。

近所の駄菓子屋さん、子供でも徒歩5分の距離だ。まだ開いていた。

おつりの硬貨はすべて、勢いよくカーテンに投げつけた。

この時は怒られた。まあ、怒られて当然だが・・・。

それでは前段の父の理不尽な要求は裁かれないのか? そこに切れた? まあ、それほどの怒りでもないが、そんなことが一度や二度ではない。
いくつか積みあがっていたのだろう。

ある日の夕方、「もううちには戻らない」。
そう言い残し、家を出た。
しばらく庭の木の上に上り、時間をつぶしていた。

ここは秘密基地だった。祖父につくってもらったものだ。
太い枝の間に細い木の板を紐でむすびつけただけのものだ。
定員は2名、友人を何度か招待したこともある。
筆者の両親はこの秘密基地のことを知らない。
しばらくして、母が「コージ~、ごはんよ~」そういって、庭にでてきた。
それを木の上から黙って見守る。

30分後、もうかなり暗い。父が「コージー、どこだ~、」そう大声をだしながら、敷地の外へ出て行った。僕ははここだ。してやったり。

30分後、父が戻ったのを見届けて、木から降りた。


今更もう帰れない・・・・。

同じ敷地内の祖父母の家へいった。祖母はなにもいわず、夕食の用意をしてくれた。その日から結局10か月ほど、祖父母の家でくらすことになった。 相撲の中継のある日に祖父と、どらから勝つか、そんな会話をしながら見ていた。祖母はそれを見てニコニコしながら、夕食の準備をしていた。
祖父は「このまま、うちの子になってもいい。」そう言っていた。

もう後には引けないのだ。

その日はふいにやってきた。
「俺がわるかった。そろそろ帰ってきてくれ。」正座して頭を下げる父。

これは筆者の全面勝利だった。爽快だった。

コンクラーヴェ(注2) いや ”根比べ” には自信がついた。


注1:

有酸素運動能力に対する体力測定の方法。往復持久走とも言う。

出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

注2:

「教皇選挙」を意味する言葉で、全カトリック教会最高司祭[1]たるローマ教皇枢機卿による投票で選出する手続きのことである。日本のカトリック中央協議会ではコンクラーベと表記する[2]。Conclave とはラテン語で “cum clavi”(鍵がかかった)の意である。

出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

53.記憶 きおく につづく


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