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iPhone落とした。人はこうやって信じる心を失うんだな

家の周りをランニングしていた。走り始めて15分が経った頃、それは落ちた。

iPhoneが落ちた。ケイスケ・ホンダ(僕のiPhone 12の登録名)が落ちた。ガシャン!という音はしなかった。ポトリとも言わなかった。無音。静かに、それは落ちていった。

慌てることはない。来た道を2、3歩引き返し、僕はそれを拾った。念のため、動作確認をしておこう。Twitterアプリが問題なく開けたので一安心。それをポケットに戻そうとした。その瞬間、嫌な予感がした。まさかとは思いつつ、僕はそれをひっくり返した。

絶望した。ケイスケ・ホンダが割れていた。

僕はケイスケ・ホンダにケースをつけていない。裸でスマホを使っている人は珍しいのだろう。友人から「ケースつけないの?」と聞かれることもあった。そのたびに、うるせえ、余計なお世話だ、と思っていた。ケイスケ・ホンダに防御が必要とは思えなかった。

ケイスケ・ホンダを過信していたわけではない。僕は現実主義者だ。必要なものは買うが、不要なものは買わない。当たり前のことだ。かつて持っていたiPhone7やiPhone11にはケースを付けていた。しかし、ケースの必要性を1ミリも感じなかった。これまでiPhoneを落としたことは一度もなかった。だから、2020年にケイスケ・ホンダを迎え入れたとき、ケースを付けないことを決めた。ケイスケ・ホンダに余計な装備は不要だ。ありのままの姿でこそ最も輝く。それがケイスケ・ホンダだろう。至極まっとうな決断だった。

ただ、自分にとっては合理的な判断でも、世の中的には少数派であることは分かっていた。友人たちや街ゆく人たちのスマホを見るたびに、僕は驚かされた。なぜ画面が割れているのか。それもちょこっとヒビが入るとかではなく、バキバキに。どうしたらそんな状態になるのか。

むしゃくしゃして地面に叩きつけてしまったのだろうか。それなら分かる。僕も会社員時代、上司からの電話が嫌いすぎて社用スマホを川に投げたい衝動に駆られたことがある。度胸が足りなくてできなかったけど。だが、スマホを落とす民の話を聞く限り、そうではないらしい。感情に任せて叩きつけた、とか実験的に落としてみた、とかではないのだという。シンプルに、純粋に、ナチュラルに、落としてしまったのだと。

彼女たちは言う。スマホは貴重品だ。いつだって、誰だって、スマホを落としてしまう可能性がある。だから、私たちはそのときに向けて備えるべきだ。備えあれば憂いなし。準備こそが大事なのだと。

しかし僕は思う。スマホは貴重品だ。大切なものは大切に扱う。大切に扱えば、落とすことはない。たとえば、赤ちゃんを抱っこして落としたことはあるだろうか。僕はない。なぜなら、絶対に落としてはいけないからだ。大切なものだ、落としてはいけない、と思えば、人は落とさない。意志こそが大事なのだと。

こうして4年間、僕はケイスケ・ホンダを大切に扱ってきた。スマホを落とす民からいくら絡まれたところで、決して落とすことはなかった。遅刻しそうになり駅までダッシュしても、世界一周の旅をしても、傷を付けなかった。ケイスケ・ホンダはケイスケ・ホンダのままだった。

しかし、と言うべきか、やはり、と言うべきか。人生は甘くない。

ケイスケ・ホンダは落ちた。そして割れた。

なぜケイスケ・ホンダは落ちてしまったのか。偶然か、必然か。どちらなのかは分からない。ただ少なくとも、いくつもの条件が重なった結果だったは言える。

今回の状況を整理しよう。ケイスケ・ホンダが落ちたのはランニング中。僕は結構なランニングガチ勢だ。ランニングとは身一つでするものだと考えている。たとえゆっくりなジョギングであっても、走るときは原則手ぶら。スマホを含めて一切の荷物を持たない。そして、タイムや距離はガーミンというスマートウォッチで計測する。僕は彼のことをガーミン先生と呼んでいる。僕のランニング人生の隣にはいつもガーミン先生がいた。

ところが、だ。10月のインドネシア旅行から帰ってきて、ガーミン先生が壊れた。インドネシアの暑さにやられたか。野良犬から悪い気でももらったか。真相は分からないが、とにかく壊れた。まあ、2017年から使っているので寿命がきてもおかしくはない。

本当なら新しいガーミン先生を買いたいところだが、懐事情が苦しいのでしばらくお預け。ということでインドネシアから帰国して以来、タイムや距離を測るため、しかたなくスマホを持って走っているのだ。

そもそも僕がなぜスマホを持たないかといえば、自然な形でランニングをしたいから。マラソン大会では荷物を持って走らない。であれば練習でも同じ条件で走るべきだ。以前は手でスマホを持ちながら走っていたが、違和感を感じた。最近のスマホはでかい。スマホを持つ片側の手や腕に力が入ってしまい、自然のフォームではなくなる。

ガーミン先生が壊れている手前、スマホを持って走るのはしかたない。だがなるべく自然に走れるスマホの持ち方はどんな形か、試行錯誤を重ねて考えた。結果、上のジャージのポケットに入れるのが最も違和感がないと結論づけた。そしてこの日も、上のジャージの左ポケットにケイスケ・ホンダを入れていた。もちろんチャックは閉めていた。だから落ちることなどあるはずがないと思っていた。

しかし、ケイスケ・ホンダは落ちた。なんとポケットが破れてケイスケ・ホンダが落ちてしまったのだった。僕の着ていたジャージは古かった。ランニング中、ケイスケ・ホンダが何度も上下に揺れることで、ポケットの布生地が刺激され続け、破れた。そして、ケイスケ・ホンダは落ちた。

事態を理解した瞬間に思った。ああ、もう信じられる者などいない、と。自分の手で握りしめていたのなら、ケイスケ・ホンダが落ちることなどありえなかった。僕が落とすわけがない。ポケットが破けたのはポケットが悪い。ジャージが悪い。僕は悪くない。僕に責任があるとすれば、ポケットは破れないと信じた、その愚かさにある。

僕は大きなショックを受けていた。スマホをしょっちゅう落とす民には分からないだろうレベルで。僕はスマホを落とさない自信があったし「落とす意味が分からない。ケースなんて不要」と豪語していた。なのに、やってしまった。苦手分野でいくらミスしても落ち込まない。だってそれ苦手だもんって話である。だけど、どんなに小さかろうと、どんなにくだらなかろうと、自分が自信を持っている分野でのミスは心がやられる。

なぜポケットの耐久力を信じてしまったのだろう。やっぱり自分の手で握りしめていればよかった。信じられるのは己だけなのだから。ああ、こうやって人は信じる心を失ってしまうのか。全部自分でやらないと、自分の手の中に収めないと。そんな気持ちになっちゃうよね。

それでも僕は信じたい。信じる心を失いたくない。

たしかに僕はケイスケ・ホンダを落としてしまった。だけど、ケイスケ・ホンダは踏ん張ってくれた。幸い、カメラレンズや液晶画面に傷はついておらず、問題なく操作できる。

つまり、考えようによってはセーフともいえる。スマホにケースはいらない説をギリ通すことができる。なんとかここで踏ん張りたい。僕はひとりで生きてきたわけではない。いろんな人に助けられてきたし、これからも助けてもらうだろう。社会の中で生きている。だから、目の前の誰かを信じることに臆病にはならない。勇気を持って、あなたを信じる。


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岡村幸治(コージー)
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