なぜ記者は「いい文章が書けない」とよく相談されるのか

週刊誌の記者をしていると、「どうすればいい文章を書けますか?」とよく相談されます。

毎日のように文章を書いているのに(だからこそ)、多くの人が「うまく言葉にできない」「いつも誤解されてしまう」と悩むのかもしれません。悩みの内容やレベルは多岐にわたります。

企業広報のSNS投稿、謝罪の手紙、転職活動の職務経歴書、別れた恋人へのヨリを戻すためのメール、小説を書いてみたい……など。

これらは、まったく別の目的のための文章です。購買意欲の刺激、人間関係の修復、自らのキャリアの体系化、コミュニケーションの最難関である人の心の動かし方、そして、自らの才能を試したい(人を感動させたい)。

これらは文章の問題ではなく、根本にはもっと深い別の問題があります。
それなのに、どうして文章が書けないという悩みは、記者のもとに寄せられるのでしょうか。医者にかかるにしても、症状によって、医者を選ぶはずです。お腹がいたいといって、眼科にはいきません。

とはいっても、関係上、断れないことが多いので、いちおう相談に乗って、アドバイスをしていると、相談者の文章は劇的にうまくなっていくのです。そして「バズりました」「和解できました」「転職決まりました」と感謝されることも多くあります。当然、うまくいかないこともありますが、その場合も「次に生かせそうです」「諦めがつきました」とこれまた感謝されます。

これは、ぼくの実力ではありません。
ぼくはただ「ここがわかりにくい」「このあたりの情報が不足している」と指摘しながら、どういうことを書きたかったのか、話してもらうだけです。そのやりとりを数回、多いときでは数十回になりますが、なにか具体的な文章術を指南したわけではありません。

そもそも記者は文章がうまい人なのでしょうか?

記者は事実を過不足なく、わかりやすく伝えるのが仕事です。しかし、それは仕事の一部で、執筆よりも取材のほうが大事です。どんなに読みやすい文章であっても、ニュースバリューのないものは誰も読んではくれません。反対に、読みにくい文章であっても、ニュースバリューのあるスクープならたくさんの人が読んでくれますし、「いい取材」とほめてもくれます。いい文章を書いたからといって、文章だけをほめてもらえることはよほどのことがない限りないと思います。文章力は、記者に求められる最重要のスキルではないのです。

実際に、「いい文章=オリジナルティのある文章」と定義した場合には、いい文章を書くなぁと感心するような記者はすくない印象です。そもそもオリジナリティを発揮する場はそれほど多くないので、知る機会がないだけかもしれませんが。(最近では紙とWeb媒体どちらも記事を書くので増えてきています)。

ただ、「いい文章=読みやすい文章」と定義すれば、これはほかの職業に比べて、やはり記者に軍配が上がると思います。膨大な取材データを、限られた誌面のなかで、「なにを?どれだけ?どんなふうに?」伝えるのかは腕の見せ所です。いつも記者の頭のなかには、十人十色の読者像がいます。「あ、この表現は興味なに人には、わかりにくいかな?」「これはある思想をもっている人は気にする表現かな?」と、頭をフル回転し、読みやすい(そして誰も傷つけない)文章を「あーでもない、こーでもない」と練っていきます。

もしかしたら、この過程を経験や訓練によって、身に付いているからこそ、記者は文章相談に答えられているのかもしれません。つまり、うまく文章が書けないという悩みの多くは、「相手のことがわからない」ときには「自分のことがわからない」と同じ悩みなのです。わからないから、文章が読みにくくなっているのです。書く行為は、考える行為と表裏一体です。読みやすい文章の第一条件は「わかっていることを書く」です。

そんなの当たり前と思われるかもしれませんが、これが実際にしてみると大変なのです。就職活動の志望理由ひとつとっても、みな苦労していると思います。わかる、より先に書かなければならない事態が差し迫っているのです。

人がペンを手にするのは、おうおうにして手遅れな状況に追い込まれたからです。

そして、ぼくたちの周りにある名文、いい文章とされているものは、例外なくすべて読みやすいものです。だからこそ、よどみなくスラスラ書いた文章だと勘違いしてしまいます。自分たちだって、一筆書きみたいに一気呵成に書いてしまわなければならないと。小説家たちも宣伝のために、「この小説は一週間で書き上げました」といったりします。たしかに、一週間で書き上げたかもしれませんが、それが本になって発表されるまでには、数か月にわたって、何十回も書き直します。読みやすい文章は、何ども推敲された文章です。

人は書くようには考えられないのですから、かならず書き直さなければなりません。思索>話す行為>書く行為と、スピードは遅くなり、捉えられているものの範囲は狭くなります。

一方で書く行為は、時間はかかるけど、その分、解像度の高い思考の結晶であり、それは自分だけではなく、ほかの人にわたしても(それも場所や時間を超えて)、同じ気持ちや価値観が共有できるものになるのだと思います。

これを言い換えてみると、いい文章が書けないという悩みは、すでに悩みの半分は解決しているともいえます。なにをするべきか、なにを伝えたいかはわかっているからです。「わたしが悪かった」「やはりあの人が好き」「自分を変えたい」と。それをどう言葉にしていくかというのが残りの悩みです。

一方で、ぼんやりとした不安を抱えているときには、とりあえず書いてみるのがオススメです。人に悩みを話して、ラクになった経験は誰にでもあるでしょう。話す行為は、悩みの輪郭を浮かび上がらせてくれます。話してから、書いてみればさらになんに悩んでいるのかが明確になるはずです。(もっとも芥川龍之介の遺書には「ぼんやりとした不安」と書かれていたようですが……)。考える行為に、散歩する、話す、書くなど、いろんな種類があるのを知るのは、悩みを解決する手段が増えたということです。

書く行為は、想像以上に時間や負荷(好きではない言葉ですが、コストといってもいいかもしれません)がかかるものなのです。イメージするよりも、ずっと遅く、ゆっくりとしか書き言葉にはなってくれないのです。いい文章が書けないという悩みの多くは、書く行為がどれほど時間のかかるものなのか知らないだけなのです。記者はそれを知っています。締め切りに追われながらも、ジタバタしたって仕方ないと、屋上でタバコを吸ったり、スマホの電源を切って仮眠室に逃げ込んだり、一杯ひっかけるために居酒屋に出かけたり……。いろんな待つ方法を身につけています。ただそれだけです。そして文章が完成したときは、「いい文章が書けない」という悩みは、ほんとうはなんの悩みだったのかを知るときです。


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