水飲み(創作)

    中学を卒業するとき、ユウトは、恩師と呼んでいいような関係の教師から、つぎのように声をかけられた。すなわち、「酒は呑んでも呑まれるな」と。
 その恩師というのは、酒でよく失敗をしていた。その例のうちの一つは、ユウトが所属する水泳部が地元の小さな大会に参加するというときに、二日酔いであらわれたことだ。そしてそのあと、プールサイドの片隅に、遠慮がちにではあれなにかの液体で水たまりをつくったことだった。
 ユウトにとっての恩師が、その件によって保護者による批判にさらされ、クラブの顧問から降ろされてからも、彼は彼女とよく顔をあわせていた。むしろ、顧問ではなくなってからのほうが、恩師と呼べるようなかかわりをしていた。理科の苦手だった彼は、教科書を抱えて、ひんぱんに質問をしに行っていたのだ。ただし、理科の質問は、しばしば雑談にとってかわられた。そのころから酒でした失敗をよく聞いていたために、ユウトは、酒を飲んで失敗することこそが大人になるということなのだと理解するようになっていた。
 だが、じっさいのところ、ハタチを越えてからも、ユウトには酒を飲むことはできなかった。正確に言えば、ビールをコップに一杯飲むとすぐに寝てしまうために、酒を飲むことはできても、失敗することはできなかった。宴会の最中に寝てしまうことがすでに失敗かもしれなかったが、彼はそうは考えなかった。十分ほど寝て目を覚ませば、いつも酔いは覚めていたからだ。それになにより、そこには逆流が欠けていた。
 そのようにして、失敗することさえできないのだという無力感は、いつまでも彼のうしろをついて回った。周りが年齢にかまわず飲酒するのを横目に、かたくなにオレンジジュースを飲んでいた彼は、ハタチをすぎてからはもはや水しか飲もうとはしなかった。
 水しか飲まなかったユウトは、あるとき、運命的な出会いをした。もう四十も近くなり、アマゾンで買えるミネラルウォーターは全種類制覇しただろう、と感慨を深めていたときだった。もっとも気に入ったミネラルウォーターのレビュー欄に、「ポカリのほうがうまい」と書かれていたのである(☆1で)。
 彼はそれに怒り、「関係のない商品のことを書くのはどうかと思います」と反応しようかと思ったが、息子のことを思い出した。今年中学生になったユウスケは、道徳かなにかの授業で言われたのかわからないが、「人の話を聞くのが大切だね」、とよく言うようになった。
 ユウトは数秒考えたのち、一本だけポカリを買おうと思った。一本だけであれば近所のコンビニに行った方がはやいし、運動にもなるから、外に出ることにした。
 突然立ち上がったために、ヨウコもユウスケもユウトのほうをみた。「コンビニに行ってくるよ」と言うと、ヨウコは「自転車のバッテリーは充電してあるから」と言い、ユウスケは「人の話を聞くのが大切だね」と言った。思いがけず電動自転車を使えることを知ったユウトは、少し遠いコンビニまで行けると考えて喜んだ。
 外に出ると、あたりはもう真っ暗だった。「一寸先は闇~」と口ずさみながらゆったり自転車をこいでいると、「こんにちはあ、夜でも暑いですねえ」と近所に住むおじさんに声をかけられて、「いやあ、タンクトップしかないですね」と、過ぎ去りながらかわすような会話を経て、ついに、ユウトはコンビニにたどりついた。家から二番目に近いところだった。時間が遅いからか、店の前には若者が複数、楽しげにたむろしていた。
 ポカリを一本ショーケースから取り出したとき、隣のショーケースに並べられているチューハイやビールをみて、ユウトは、自分とは関係のないことだと思い直して、清算を済ませ、店を出た。
 外に出ると、さきほどの若者たちはもう姿を消していた。自分もあんな風に楽しかったころがあったな、と思って自転車に乗ると、酸っぱいにおいとともに尻にあたたかみが感じられ、ユウトは吐いた。
(ミズウミ)

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