『アクアマン』のデカさ(ネタバレあり)
『アクアマン』は、ジェームズ・ワンによる監督作だ。宣伝を見ると、『ワイルド・スピードSKY MISSION』監督による作品、と書かれている。『ワイルド・スピード』が規模の大きな作品であることは間違いないのだが、ほかにも、『ソウ』や『インシディアス』、『死霊館』といったホラー作品も監督している。
まず簡単に『アクアマン』のあらすじをみておくと、次のようになる。アーサーは、地上の人間とアトランティス人の女王との間に生まれた子供だった。彼はそのパワーで潜水艦を救い、地元のヒーローになる。そのころ海底では、アーサーの弟、オームが地上を攻撃するために海の王国を統一しようとしていた。それを防ぐためにアーサーはサハラ砂漠、シチリア、海溝の王国などを巡る旅の末、伝説のトライデントを手に入れ、オームを倒す。
『アクアマン』はヒーロー映画だ。しかしそれだけではなく、劇中の「国のために戦うのは王、みんなのために戦うのはヒーロー」というセリフにあるように、ヒーローの「スケールの大きさ」を徹底的に示した作品でもある。
ストーリーの点から見ると、主人公のアーサーははじめ、地元の飲み屋で写メを求められたりしていたが、そこから、地上の人間とアトランティス人との戦争を防ぐために、異父兄弟のオームと王位をかけて戦うようになる。オームはアトランティスという国を地上人たちから守るために、アーサーは地上対海底の戦争による犠牲をださないために、それぞれ戦う。さきほどのセリフはこの二人に完全にあてはまることになるが、そこにでてくる「みんな」というのは地上と海底の人々という意味で文字通り「みんな」であり、ヒーローの「スケールの大きさ」が表れている。
さらに、舞台になった場所的に言うと、アーサーは伝説のトライデントを求めて、世界各地を……とまではいかないが、地上ではサハラ砂漠やシチリアを巡り、海上のクルーズや海中を通りぬけ、「隠された海」なんて場所にまで到達してしまう。アーサーは冒頭では、父親の守っている灯台や街で暮らしていた。そこからすると比べ物にならないスケールである。
加えて、時間的なスケールにも、序盤と中盤以降とで変化が起こる。序盤、アーサーの周りに流れているのは(父と母の出会いと別れから物語が始まったように)、家族単位の時間である。それが、伝説のトライデントを手にするという目的ができたあたりから、時間のスケールも、歴史的な過去を含めたものになる。たとえば、アーサーはシチリアで思わぬ古代ローマに関する知識を披露するし、伝説のトライデントを守るカラゼンとの会話では、今までトライデントを引き抜こうとした人々の白骨化した死体が画面に映し出されたりする。
もちろん、以上に述べたような、序盤と比べて主人公が見る世界が大きくなるという変化は、物語形式をもつ作品において珍しいことではない。しかし、それがほとんど感嘆してしまうようなスケールまでいってしまうのは、ヒーロー映画ぐらいにしか許されていないのではないだろうか。それが画面においても徹底されている点にわたしは感動したのだ。
アーサーが伝説のトライデントを手にする場面をきっかけに変化は起こる。
冒頭、アーサーの母と、彼女を捕えに来たアトランティス人の兵士たちの戦闘シーンがある。見れば一発でおお、となるような激しいアクション、かつカメラワークなのだが、問題はそのあと、灯台を映した、静かな引いた画面である。
あるいは、中盤、シチリアをあとにしたアーサーたちが海上をボートで進んでいるシーン。海溝の王国の怪物たちが襲ってきて、激しい近接戦闘ののち、アーサーたちは海に飛び込む。海を縦にきったような画面になり、アーサーがもった発煙筒(おそらく)の赤い光が海の底に潜っていくと、それを無数の怪物たちが追いかける。ふたたびアーサーたちに寄った画面で、怪物たちはアーサーたちにぶつかる。ここでもやはり、人物に寄った激しいアクションを映したシーンと、人物から引いた静かなシーンを交互にみることができる。
こうした切り替えは作品中にいくつも見つかる。ただ、それは、アーサーが伝説のトライデントを手にするまでである。
彼はトライデントを手にしたあと、すでに起こっていた甲殻類の王国と、オーム率いるアトランティスとその他の王国の連合軍との戦争に割って入る。
そのとき、アーサーは巨大な怪獣の頭に乗ってやってくるのだが、もはや(引きすぎて)アーサーはみえない。それほど引いた状態でも、さきほどの「人物に寄ったアクション」ばりに、激しい戦闘が展開される。静かな引いた画面など、超パワーのアクアマンの前では存在することはできないのだ。
これはひとえに、アーサーのヒーローとしてのパワーが、引いた画面でさえも満たしてしまうほど大きくなった、ということだ。ただし、ことはそれほど単純ではない。前述したように、ストーリー的にも、空間(場所)的にも、時間的にも、すべてがスケールを増していく状態のなかで、さてどのようなスーパーヒーローぶりを見せてくれるのだろう、という期待が(あるいはハードルが)あった。それをみごとに飛び越えていってしまう、「引きの画面」をみたす戦闘には、ため息をつくほかない。(文:小林望)
2019/2/19タイトル、本文一部変更(ネタバレ表記を本文からタイトルに移しました)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?