掌編小説「ファンダメンタル レンタルパンダ」
掌編小説
「ファンダメンタル レンタルパンダ」
こい瀬 伊音
「隙間時間の使い方に難があるってだけで、ほかは善良だったよね」
あたしは小袋を破き、人差し指と親指でとりだしたさくさくぱんだに話しかける。無表情なはずのビスケットの面に車の温度で溶けたチョコが涙とか汗でどろどろになったファンデみたいにくっついている。あんたまで泣くことないよね。きたなげ。口に放り込んで指についたチョコをなめてからバニティミラーを覗きこむと、アイラインが下まぶたに黒く滲んでる。ざくざく。咀嚼をくりかえす。
お湯でオフできるフィルムタイプのマスカラは万能だと思ってた。おひるまに、唾液の匂う耳まわりにシャワーするなんて事態は想定外だったもんね。さっきはぱんだをつまんだ指で、顔に落ちてる黒の線をつまみ取る。
主戦場が家、それもおふろあがりとなると、まつげをどうとかしてらんない。それがいけない? それがだめならすっぴんにマツエクをこわいとか言わないで。ざく。ぱんだを奥歯ですりつぶす。
不必要な休みの二日目、車を降りて、まだ夏の気配が残る緑の参道を歩き始める。石畳の隙間にヒールの足をもっていかれる。
神事を執り行った後だから、今日は祈祷に来ました。神様、仏様、どっちでもかまわないから願いを聞き届けてください。
お護摩の申し込みだけすませ、本堂を右手に奥へ進む。深緑のヤマモミジが葉と葉を重ねて、空とあたしの間でチェックの柄になる。岩の切れ目に格子戸が現れ、その奥は覗いても暗くてよく見えなかった。
「延命観音」
看板を読む声は闇に吸われた。
この闇を胎内にたとえてるんだ。それは男の勝手な思考だよね。入りたいときだけ籠もりたいときだけ隠れたいときだけで出ていける。女はからだの中に否応なく抱えていなくちゃいけないのに。ひんやり静かな闇が濃ければ濃いほど、迎え入れたときには粘っこく甘い水飴になって糸を引いて。絡みついているはずが絡め捕られてしまう。溺れるみたいに。
あたしの胎内は。胎内は?
待つだけなの待たされるの待ちたいの待ってられるのそれから宿すの宿したいの本当は全部いらないのどれなの。
昨日から今日の午前中にかけてのくらやみまつり(模倣)は、迷いなんてなかったはずのあたしを揺さぶった。後に引きたくはないから、一人目との約束を取りつけておひるまに第一夜を持った。全体的にうまくいかなくてもかまわなくて、最後だけなかでいってくれればよかった。
そんなまつりは江戸時代の話。でもお堂も祠ももっと前からある。そんな遠くない昔。境内の明かりをすべて落とした闇のなか子孫繁栄を願う。延命観音にまみえる。よそ様の種をもらうことではじめて務めが果たせる女も、その日があるから夫となくてもやってられた女もいたんだろうと思う。行きたくなければ行かなければいいし、三行半でことがすむ。
排卵日に背水の陣を敷いたのに。
ゆうべ夫はあたしをちらっとだけ見て背を向けて、ねたふりをそれもへたでふりだとわかるやつをした。声は床に落ちてまたほこりになった。無駄に露出した二本の足がみじめで、急いでキッチンへ向かって冷蔵庫の扉を開けた。オレンジの光の中、冷えたぱんだを一袋ぶん頬張った。ちょっと塩気混じりでプレッツェルみたい。お酒の買い置きはなくて炭酸水を一気に煽った。ぷつぷつぷつ。圧縮された泡はいつだってそとへ飛び出したがっている。
時間通りにお堂に入り一番前に座った。神事の最後の仕上げだから、手も口も清めて。
僧侶が五人、並んで出てきた。思い描いていた白と黒の世界じゃない。法衣は鮮やかな赤と緑で下に着ている白を透かしている紗。数珠をなであげて音を出したり太鼓を叩いたり、お経はまるで異国の言葉だった。赤い炎がめらめらとあがる。あの数珠は煩悩の数だったりするのかな。罪を焼いてくれたりするのかな。
低い読経の声、レースの下の肌、熱の灯る目。あたしは今日の午前の第二夜を思い出す。 冷えた二本の足の間に、熱い腿が割って入る。愛とか抽象的なものはなくても優しい手でなでられる。義務とか縛るものがなにもなくてもあたしはここにいていいんだと感じる。傷つけず傷つかず他人として正しい距離をとって、親しみを込め礼儀正しく偽名を呼び合う。しがみついて首元から見下ろした背中が目の前に浮かび、炎のなかでごう、と舞い上がる。赤い法衣の男に見とがめられた気がして、あたしはとっさに頭を下げた。
欲望が爆ぜて燃えさかる。
あのひと、優しかったね。なんでだろうね。ああいうひとたちがもしかして、世の中の主流だったりして。昨日のおひるまだって、ちっともみじめにならなかった。
車の中だとまた溶けるから。そう思って持ってきたぱんだは、この熱でやっぱりチョコがきたならしくなっているだろうけどあたしはかまわない。また冷蔵庫に入れればいい。くっついた分おおきな一口で食べればいい。いっきに口に入れるの。贅沢だよね?
お香で煙で鼻の奥がつーんとして、あたしはだけど、とたちかえる。ぱんだはいつだって借り物だからかわいいのかもね。もとの場所に帰ると思うから優しくしたんだよね。
そして考えずにはいられない。あのおおきな火に焼かれて焦げて灰になってしまえばいいものはなに? あたしはどうしたって恋しく思い浮かべてしまう。見慣れた顔を。一番近いのに一番遠い他人を。顔がぐちゃぐちゃすぎるからもうちょうどいいと思って。
燃え上がる火のすぐ前で袋の口を裂いた。
(おわり)
パンダの写真はニガクサケンイチさんより
いただきました。
ありがとうございます。
いと