シェアード・ワールド企画「煙の街カーニバル」

「となりあう呼吸」の二次創作
 シェアード・ワールド企画

「煙の街カーニバル」

             こい瀬 伊音

カーニバルの夜、おおきな海老は赤々と跳ねる。
小エビはカリカリに揚がる。
 それはこの街の、一年に一度のごちそうだ。
 舞台に据えた大きくて浅い鍋に油。そこにざざっとまとめて投げ込まれる身体。華やかなエビ反り。パチパチとはぜる赤。
 しっかりめに揚がるのを固唾を飲んで見守っている崩れかかった工員たちは、一斉に取りかかりむさぼり出す。
 煙よ煙。もうもうとたちこめて、大人たちの目はどんどんと霞んでいく。
 甘辛くコーティングされている、その不思議について、飴細工のように光っている、その艶やかさについて、考えるものは誰もいない。

点呼に応えたかときかれて、タエは首をかしげた。何を、聞かれたのかとっさにはわからなかったからだ。
 テンコ、ニコ、タエタ、カ?
 十個? とニ個、タエ食べた、のか?
「タエは食べてない。お腹すいてる」
 いやにきっぱりと答えるのでサカは笑いころげた。
 劇場では形のいいやつらがスターで、そのきれいさを見ていると胸が締め付けられる。そもそもあいつらは恵まれていて自分たちとは全く違うのだと。
 工場に紛れていると思うのだ。たとえ指先が崩れていても片足がなくとも、失くしたものが多いほどよく笑う気がする。ああやって笑って生きていたっていいんだ、と。劣等感どころか多幸感があふれていて、工場の奥は誰にとっても生きるために大切な権利を具現化したものなんじゃないかと思う。
 サカは、自分のこの話がタエにどれだけ理解されるのかについて、そんなに期待していなかった。タエの頭は深く考えることに向いていなくて、聞こえる端々をつないで自分に引き寄せるだけのしくみだから。
「タコ、交換、何とならできるかな。お腹すいた」
 年々煙が濃くなるこの街で、もとがなんだかわかる食べ物は高級品だ。魚だって一度だけ食べたことがあったきり。偶然針にかかった、形の崩れそうな。それでも炙ると芳ばしくて、こんな煙もあるのかと感動した。たとえばリンゴが赤いことは知っているけれど、どんなさわり心地でどんな味でどんなにおいなのかを知ってると言うやつに、サカは会ったことがなかった。
「タコなんか、知ってんだ」
「うん。足が八本。あとニ本は崩れたのかな?」
「そうかもな」
 崩れることは日常だ。サカの膝下だって左はもう、それからタエの顔の右半分だって。
 サカが潜り込んでる製造ラインで今日名前を呼ばれたのは五人だった。呼ばれたやつはにやりとし、呼ばれなかったやつは不貞腐れた。
 みんな同じように身体は崩れかかっていて、なんとか立てる、または座っていれば手は使える。ただ、崩れゆく速度はまちまちだった。
 呼ばれた五人は……ヨーさんやキイさんは特に……ここのところ急激に崩れやすくなっていて、少し楽なラインへと異動すると告げられた。みんなよく笑っている、工場の奥のラインへ。
「俺たちだって辛いよなぁ」
 おおきな声は牽制かなにか。
「大したことできないくせに、楽な仕事に回してもらえるだなんて」
 ちいさな声は煙より重くまとわりつく。
 自分の身体だって崩れゆくのに。
 その先にも仕事があるんなら安泰なんじゃないの?
 サカの頭で簡単に思いつく未来を、おとなたちは感情として理解できないようだ。
 あいつらは楽をする。
 こっちだってつらいのに。

次の月曜の帰り道に、奥のラインに移ったキイさんをみかけ手を振った。
 そっちの仕事、どーですかー?
 おおきな声を出すのにおおきく息を吸うと咳き込みそうで、そうするとまた左足の端がぽろりと崩れそうで、サカは口だけパクパクと動かした。
 こちらを見つけよりいっそうにこやかになったキイさんは、ずり這いで近づいてきた。負担をかけないようにとできるだけ歩みより、目線が合うようになんとか、右足一本でしゃがみこむ。
「わああ、さすがサカは若いね。頑丈だなぁ」
 キイさんの、顔がほころぶ。耳たぶの、上が尖ったかたち。
 キイというのは異国の言葉で「耳」という意味があるそうだ。キイさんはどんな音でも聞き分けられた。身体が崩れだすまえは劇場のピアノの調律師をしていたときいた。劇場から工場へ流れてきた理由についてあえて聞くやつなんていないけれど、工場でだって機械の調子を聞き分け、そりゃあ頼もしいひとだった。
「キイさん、奥のラインの機械の調子はどう?」
「ああ、あれは抜群のリズムなんだ。擦れて高い音が混じってくる頃、自動洗浄もされる。その水の音もよくてねぇ。なんだか甘いにおいもして、身体も楽で天国よ」
「いじわるされたりしない?」
 灰色の工場の中、身体の一部が崩れたとき。汚いものを落とすなと怒号が飛んで、仲間のはずの工員からもクスクスと笑われる。そんな生活は嫌だと思っても、劇場ででも働かない限り世界は変わることがない。その劇場は、だいぶ、だいぶの背伸びをしなくては、客にもなれないほど遠いのだ。一年に一度、カーニバルの夜以外には。
 サカの心の声を聞き取ってか、キイさんは言う。
「サカ、辛いことはね、全部のことは、カーニバルまでの我慢だよ。あと、たった一週間」

街の煙が濃く吹き溜まる夏の工場の中では、甘いにおいがたちこめた。サカの製造ラインにも、奥で飽和した甘すぎる空気が忍び入りどんどんと溜まっていくから。これは、爛熟ということばがぴったりの、カーニバル直前の空気で、街のみんなが多幸感に包まれる。
「タコ、交換」
 劇場への道すがら、タエはうれしそうに、残った八本の足のことを話す。十じゃなくて八あれば、案外幸せなのだとサカも思う。煙は甘く、街中を浸す。
 今日のこの特別な日、工員たちは前列だ。普段から劇場にこられるような金持ちは皆飾り立てた服でニ階席へ。
 光を浴びた踊り子。手も足も二本ずつ。きっと指は十本。だけど今日はすこしも、自分が惨めなんかじゃない。タエの顔面もサカの膝下も、欠けてはいても不幸じゃない。
 甘いにおいは重くすこし赤みがかって、灰色の空気を駆逐する。どんどんどんどん、耳も目も甘さに塞がれていくみたいだ。
 舞台の真ん中に据えた、大きくて浅い鍋に油。縁から、甘辛い衣のついたかたまりがつぎつぎと弾かれ投げ込まれる。パチパチパチ。おおきなあぶくが上がってくる。ぐいん、華やかなエビ反り。うおおおおおお。会場からのおおきな声、芳ばしいにおい。つるりとしたコーティングは赤く下へと光を保ち、まるい天使の輪が何重にも見える。
 からりと揚がるそばから一階席に振る舞われた。我先にとみんな手を出す。カリリ、ちいさいエビに歯を立てる音があちこちで響く。
「たくさんあるから押さないで」
 スピーカーの声と金持ちの暗い微笑みがニ階席から降ってくる。痩せ我慢してないで食べたいって言えよ。あいつらは不自由なんだな、とサカはせわしく顎を動かして小エビのカリカリした食感を楽しみ、それから赤い海老の身にかぶりついた。コーティングの下の白い身をかじりとってみると骨があった。
「おおきい海老って骨があるんだ」
 タエが目をしばたたかせる。そんなこと、どうでもいい。みんな、口の周りをベタベタにして白い骨に残る身を隅々まではずして平らげた。端の少し尖った小ぶりな耳の軟骨はコリコリと楽しげな音をたてた。

翌日、街中に扇子や団扇が捨てられていた。ニ階席で金持ちがずっとひらひらさせていたものだ。カーニバルすら同じように楽しむつもりはないと、それらはゴミとなってサカに告げていた。せっかく一年に一度の日なのに。
 翌々日、工場では奥のラインが閉鎖されており、あの少し重さのある甘い香りは消えていた。かわりに乾いた灰色の煙がもうそこここに吹きだまっていた。
「キイさんたちは?」
 周りの誰もがサカの問いを黙殺した。
「ねえ、ヨーさんは? キイさんは?」
 一段と高い声で問いかける。
「うるさいよ、タエじゃあるまいし。また忙しくなるんだからさっさと手を動かすんだよ」
 タエはいつもと変わらない。作業の間じゅう、タコの足が六本になったらもっと幸せかを考えていた。

おわり

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