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「人魚姫の耳」

ブンゲイファイトクラブ2(BFC2)にて
予選突破し、
一回戦出場を果たした作品です。


横書きはこちら。。。

人魚姫の耳

              こい瀬 伊音

 この人は、その気になればいつでもわたしをくびり殺せるんだ。
 はだかになるとき、いつもそんなことを思っていた。だって男のひとってたとえ細くても、骨と、腱とががっしりしていて、力を込めると筋肉がせりあがる。ぞくぞくする。荒れた海がふくらむみたいですごくこわい。
 わたしのからだは影にすっぽりおおわれてしまう。誰からも見えない。何度もいかせたとよろこぶ男は悪魔だとすら思う。もし伝えても、不敵に笑うだけなんだろうけど。
「ほら。ほら、ほら」
 その男は、金魚鉢にわたしを放り込んで魚にし、逃げられなくして銛を使った。追い込み漁、とでもいうのか、泳いでも泳いでも寝具は平らで隠れるところもなかった。構えられた銛の先が恐ろしくとがって、月を集め鈍く光った。一息に深くえぐりとられたあと、何度となく突かれた。追い詰められて、苦しさのさなかに細く細く到達する場所。感覚はひどくとがってノイズまでよく拾う。
「いきっぱなし」と笑う男にとって、わたしは女だけれど人間ではない。
 むきだしの神経を捕まえて電気を流し込むような所業を、残酷、以外の言葉でどう言い表そう。男はよかれと思って、毎度、銛をふりかざす。
 そうよ、感じるのよ?響くよ?突き抜けるよ?
 くたくたのぼろぼろになったわたしは、優しく包まれる。
「よかったね」
 のびやかな、ほがらかな、爽やかですらある声がかかる。
 わたしは声を失うほどだったわ。もう歩けないのよ。
 こんなとき彼女は自分を人魚だと思う。なにも言えず感じて、王子さまに庇護される。脚はあるのに逃げ出せない。それどころか王子さまにもっと愛されたいと願う。
 苦しいなかにも甘さがいくすじかあれば、その愛を全力で肯定したくなる。しがみつきたくなる。
 おとぎばなしのすりこみは悪だ。愛に目がくらんで声をなくした女を、思考停止のままでいさせるための罠だ。
 もしも。もしも娘ができたら、彼女をすべてのプリンセスから遠ざけなければと思う。
 びいどろの夢にとじこめるおおがかりな舞台装置にのぼってはいけません。ガラスの靴であなたの脚から自由を奪ってはいけません。豪奢な帯にからめとられてはいけません。
 きれいな歌声もしなやかな身体も、すべてあなたに帰属するもの。誰かの自由にさせてはいけません。
 ああ、朱塗りの茶杓で媚薬をひとさじ。今夜は茶碗のなかに入れられ、熱い湯が注がれる。茶筅の細い細い先が何度も円を描く。熱を逃しながらにごって泡立つうつくしい水面。ふっとたちあがるかおりに金箔で蓋をする。

 娘は生まれなかったけれど。息子ももてなかったけれど。
 ねねは、共に泳いでくれる魚がほしい。ぴったりとそばを離れずに泳ぐ二頭のいるかになればいい。わたしの声を聞いてほしい。海を震わすだけの、ちいさな声を。金平糖のとげをとかすように惜しんで慈しんでほしい。どこにもいかずに、いってしまわずに。
 遠くでなんて踊らないで。金色にきかざることもしないで。ただ横で、泳いでいてほしい。
 あなたは誰よりもたくさんの耳を持っているのに、いらない声は聞かないと、たくさんの耳を祀りあげ棄ててしまった。
 そうだ、わたしの声を一番近くで感じられるこの耳を、あなたにあげましょう。そうしたらもっと、あなたに、わたしの声が届くでしょう。金色の衣をまとったあなたはきっとよろこんで、手柄だとほめてくれるでしょう。
 月の光が玉砂利を銀色にしたある夜、ねねは左耳に薄い小刀をあて一気に耳たぶまでをおとすと、その小ぶりな曲線を茶菓子のように懐紙にのせた。深紅に染まったもみじ葉を添える。これからは静かな秋の日を重ねたいから二枚。わたしの声をきいてほしい。
「いまがころあい」と書き添えて、木の小箱に入れた。
 すぐにここへ来て。おおさかへはもう帰らないで。
 でんかへ。ねね。

「三成、あれはどうした?」
 茶々は膝を崩し、しどけなく肘掛けにもたれた。
「はい。お堀に捨てましてございます」
 高台寺の寧々からちいさな耳が届いたことは、ふたりだけの秘密だ。これは耳塚を想起させ、二度にわたった朝鮮出兵を責めるためのもの。それだけだろうか。幼い秀頼を殺す、と言っているのではないか。
「そうか。魚に、食べられたのか」
 寧々と家康は、くじらにでも呑まれてしまえばいい。
「そこまでは。ただ、泡となって、消えました」
「おまえはわたしの秀頼を、守ってくれような」
「はい茶々様。この命に代えましても」
 茶々の美しいくちびるがほころぶと、男たちはその手から羅針盤を落とす。
 好きな歌を、ただ妹たちと歌っていたかった。
 それだけだったのに。

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