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システムと意図~「見える世界」と「見えない世界」~

はじめに

これから訪れる「高次精神文明」とは、一体どのような文明か?

端的に言うと「見える世界」と「見えない世界」の関係性が、これから明白になってくる。

宇宙の構造が「見える世界」と「見えない世界」の双方向から解かれることで、画期的なテクノロジーが次々と生まれてくるだろう。

フリーエネルギー
量子金融システム
反重力装置
レプリケーター
etc…

これらの新しいタイプのテクノロジーは、社会の様相を間違いなく一変させるだろう。

「宇宙とは何か」を一言で表すのは難しいが、敢えて言えば「入れ子状のシステム」か。

銀河系
太陽系
地球生命系
国家
自治体
家族…

個々の人間も広義の意味で捉えれば「システム」と呼んで差し支えない。

人間はホメオスタシス(恒常性)を維持したり、個々の人生には「原因と結果の法則」が働いていたり、これらは全てシステム的な側面を持っている。

宇宙とは壮大なシステムだ。

システムの中のシステムの中のシステム…

マトリョーシカのようにシステムが入れ子状に連なることで、この宇宙はできている。

しかし宇宙が「システム」であるなら、そこには必ず「設計」や「デザイン」に携わった「何者か」がいるはずだ。

人はそれを「神」と呼ぶ。

大いなる存在
サムシング・グレート
創造主等々…

呼び方は何でも構わないが、誰かがこの宇宙を「意図的に」創ったのは間違いない。

最高のスピリチュアリストであり且つ、最高の科学者

「神」とは言わばそのような存在のことだろう。

そこに「システム」がある限り、そこには「意図」が含まれる。

「システム」と「意図」は表裏一体。

例えば、腕時計をバラバラに分解してビニール袋に入れ、それをシャカシャカ振り回す。

そうすることで腕時計が元通り直るかと言えば、そんなことはあり得ない。

何が言いたいか。

「材料」だけあっても「システム」は決して生まれ得ない。

誰かが「完成形」をイメージし、その通り「材料」を組み合わせることで、はじめて「システム」が成立する。

先の例で言えば、職人が設計図通りに一つ一つパーツを組み立てることで、初めて腕時計が出来上がる。

「意図」は「システム」の基を成す。

「意図」なくして「システム」の存在はあり得ない。

「意図」は「設計思想」とも言い換えることが出来るだろう。

どんな「思想」の下で、そのシステムが組まれたか。

人間は社会的動物だが、あらゆる社会システムは何らかの「思想」に拠っている。

我々が社会生活を送るこの世界は、決して自然発生的にできたものではないだろう。

誰かが「意図して」できたのだ。

明確な「設計思想」のもと現代文明がデザインされ、その上で我々は日々の生活を送っている。

「意図=設計思想」が分かると、様々な「問い」が浮かんでくる。

なぜ、このような「仕組み」や「ルール」になっているのだろう?

これまで「当たり前」としてきたものであっても「本当にそうだろうか?」と疑問が湧く。

これか訪れる精神文明において豊かな人生を築くには、「システム」と「意図」の関係性を明確に把握する必要があるだろう。

そこでは既存の価値観はもはや通用せず、自分自身の「意図」に基づき理想とするライフスタイルを自ら手で創り上げねばならない。

完全な自立が求められ、誰かの指示に唯々諾々と従っていればよかった時代は、完全に過去のものとなる。

だからこそ、自らの「意識」がどのように「現実」を創っているのか。

「システム」と「意図」の把握は、そうした「見える世界」と「見えない世界」の関係性を理解する上で、たくさんの気づきをもたらしてくれるだろう。

まずは「システム」と「意図」が、具体的にどのように関係し合っているか。

OS(operating system)と言語を題材に、これから詳しく見ていこう。


1:OSと言語

OS(operating system)と言語は、どちらも代表的な「システム」だ。

前者はコンピューターを起動させ、後者はコミュニケーションの基を成す。

まずはOS(operating system)から見ていこう。

コンピューターの代表的なOSと言えば「Mac」と「Windows」が挙げられる。

どちらもコンピューターを管理・統制するのを目的とするが、その「使用感」は両者の間で大きく異なると多くのユーザーが口にする。

この違いはおそらく「設計思想」に由来する。

Macは筐体も含め創業者のジョブズがこだわり抜いた「simple」を基調としており、その設計思想は「美」に由来するだろう。

一方でWindowsは「美」よりはむしろ「実用性」を重視しており、Officeアプリに見られるように多くの機能を盛り込むことで、幅広い要望に応えるのを第一義としている。

Macについては「トラックパッド」の使用感を賛美する声も多くあるが、これはOS、筐体、CPUを全て自前で賄うことによる「一貫性」がもたらすメリットだろう。

OSだけでなく、筐体やCPUにも独自の「設計思想」が吹き込まれることで、他にはない「使用感」を実現している。

ユニークな例として「Linux」は「オープンソースのOS」として、MacやWindowsとは一線を画した斬新なコンセプトを持っている。

Linuxはソースコードの書き換えが可能で、利用者が各々の用途に合わせ自由にカスタマイズ出来るため、「閉じたOS」であるMacやWindowsにはない大きなメリットを持っている。

「守・破・離」のようにこれからの時代は基礎を押さえた上で、誰もがそこからオリジナリティを発揮するよう求められるが、「オープンソース」はまさにタイムリーな設計思想と言えるだろう。

近年「ティール組織」や「ビットコイン」など、中央の統制を必要としない「分散管理」が注目を集めているが「オープンソース」もニュアンスは少し異なるものの、そうした流れの「亜流」として捉えることが出来ると思う。

Mac、Windows、Linux。

「設計思想」に由来する「使用感」の相違が、こうして比べてみるとよく分かる。

次は「英語」と「日本語」について見ていこう。

英語も日本語も「言語」としてコミュニケーションを図るためのものであるが、その「設計思想」には大きな相違が見受けられる。

主に英語は「モノ作り」のため生み出され、日本語は「見える世界」と「見えない世界」を繋ぐよう設計されているという。

言わば英語は「construction」、日本語は「connection」のための言語だろう。

こうした設計思想の相違は文法によく表れており、英語は「モノ作り」を前提とするため、あらゆる存在を「唯物的に」捉えるような節がある。

次の例文を見て、あなたはどう感じるか。

No body knows.

直訳すると「0人が知っている」。

すなわち「誰も知らない」という意味になるが、このように名詞を直接否定する文法は、日本語には見られない。

古神道をベースに「八百万の神々」を信仰する日本人は、あらゆる存在に「霊魂」が宿ると見なすことから、「名詞を否定する」という発想がそもそも出て来ない。

英語のように唯物思想がベースにあると、「見える世界」と「見えない世界」を繋ぐ本来の役目が果たせない。

先の例で「body」は「肉体」ではなく「人」を意味するが、これも西洋圏独特の見方であると言えるだろう。

日本はもちろん、東洋は基本的に「肉体」を「人」とは見なさない。

人の本質は「肉」ではなく「霊」であり、「body」のように「肉体」と「人」を同一の言葉で表したりはしないだろう。

同じ言語でも「設計思想」により、文法や言い回しは大きく違ったものになる。

それだけでなく、日本語を母国語とする人は「虫の音」を「言語脳」と呼ばれる左脳で処理するようになるという。

ほとんどの人は、虫の音を「音楽脳」と呼ばれる右脳で処理し「雑音」として聞くのに対し、日本人や一部の環太平洋地域に住む人々は「言語脳」で処理することで、虫の音を「声」として聴きとっているという。

設計思想の相違が、生理的な反応にまで影響するのは、一体どういうわけか?

たまたまそうなったのか、あるいは生理的な反応まで計算した上で、日本語をそのように創ったのか。

アルファベットはフェニキア人の発明だが、日本語の起源については未だハッキリしていない。

果たして日本語は「誰が」「どのように」「何の目的で」生み出されたものなのか?

「見える世界」と「見えない世界」を繋ぐといっても、正直あまりピンとこない。

「システム」と対を成す「意図」や「設計思想」にフォーカスすると、「歴史の空白」に導かれるのが分かるだろう。

翻って現代の社会システムは、どのようにして生まれたか。

それを突き止めるには、大元の「意図」に想いを馳せる必要があるだろう。

現代は物質文明から高次精神文明へと移行する過渡期にあるが、「システムの刷新」には「意図の変容」が必須となる。

現代文明は、どのような意図のもと創始されたか。

それが分からなければ、社会システムを次のステージへ刷新するのは無理だろう。

現代文明を根底のところでコントロールする「設計思想」は、どんなものであり得るか。

次はそれを概観したい。




2:システムの把握

現代文明の「設計思想」を一言で表せば「支配・統制」に尽きるだろう。

分割して統治せよ

それが現代文明を支配する者達(ディープステート)のスローガンであり、彼らは少人数での管理・統制を実現するため、人々を相争わせるよう差し向ける。

具板的には経済支配による収奪で人々を困窮させ、拝金主義へ染め上げることで争いの火種を撒くわけだが、そうした「取った」「取られた」のゼロサムゲームを二千年以上続けてきたのが現代文明と言えるだろう。

「富」はピラミッドの頂点へと吸い上げられ、下々のもとへは回らない。

政府をはじめ「隷属民」とされる人々は借金に借金を重ね、その一生を馬車馬のように働くよう強いられる。

紙幣の本質は「借用証書」で日本銀行は「負債」を計上しマネーを流通させており、本来的に資本主義は借金が雪ダルマ式に膨らむ「サラ金」のような仕組みになっている。

負債には「利子」が付くため、資本主義に「前同マイナス」はあり得ない。

「拡大再生産」が資本主義の生命線と言えるわけだが地球の資源は限られており、そうした制度がどこかの時点でポシャるのは子どもでも分かる道理だろう。

資本主義は「管理・統制」の思想に加え、ある種の「破滅願望」も含んでいる。

富を独占し人々を追い詰め、争いの火種をまき散らす。

ほとんど「神経症」とも言えるこうした振る舞いは、どこに由来するのだろう?

資本主義の根幹を成す「設計思想」とも関連するが、そのルーツはおそらく『バビロニア・タルムード』にあるだろう。

『バビロニア・タルムード』は白人ユダヤが信奉するユダヤ教の教典だが、周知の通り異教徒を「ゴイム=獣」と呼び「人間」として認めない。

そうした病的な「分離思想」が一体なぜ、どのようにして生まれたか。

それらの探求が現代文明の本質を捉え、さらには次の精神文明への移行を進める上で、これから「鍵」になってくるだろう。

「資本主義」にしても「日本語」にしても、両者共にそれらの「ルーツ」が分からない。

両者を創始した「大元」とは、一体どのような存在か?

そうした「歴史の空白」にフォーカスするのが、現代人の役目であるとも言えるだろう。

どのような「意図」に基づき、どのような「システム」が生まれたか。

それはつまり「見える世界」と「見えない世界」の関係性を理解することに他ならない。

大局的見地から捉えれば、現代は「思想戦の時代」と言えるだろう。

一神教VS多神教

『バビロニア・タルムード』を信奉する覇道一神教と、「八百万の神々」に祈りを捧げる日本教(古神道)の一騎打ち。

「日本語」はそれ自体が、

「教典」であり、
「神話」であり、
「祝詞」である。

果たして日本語はどんな「設計思想」の上に立ち、どんなプロセスを経て創始されたものなのか。

同じように『バビロニア・タルムード』に始まり、植民地主義から資本主義へと人類の管理・統制を目論む一派は、地球史のどの時点でそうした「分離意識」を持ったのか。

「分離」から「統合」へ。

物質文明から精神文明へ移行するには、意識の変容が欠かせない。

「見える世界」は「見えない世界」の反映だ。

「意識」が「現実」を形創る。

「システム」と「意図」の関係をひも解くことで、新時代への移行をより円滑に進めることが出来るはず。

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