見出し画像

シニフィアンとシニフィエ

「シニフィアン」と「シニフィエ」って一体何?

ほとんどの人にとって、

まず聞き慣れない言葉だろう。

端的に言うと、

「シニフィアン」と「シニフィエ」はそれぞれ、

言葉に関する「外面」と「内面」を指している。

言葉も「見える部分」と「見えない部分」の組み合わせによって成り立っており、

前者は「シニフィアン」、後者は「シニフィエ」として、それぞれ別々の働きを持っている。

順番に説明すると

「シニフィアン」は言葉の「見える部分」に関するもので、

言い換えると「記号としての」言葉を指している。

例えば「山」という言葉があれば、

「山」と書き表せる「記号」の部分が「シニフィアン」に該当し、

「やま」と声に出して発音する場合は

空気の振動によって伝わる「音」も

「シニフィアン」に含まれる。

「五感」で捉えることの出来る要素を指しており、

言葉の「物理的側面」と言い換えることも出来るだろう。

これに対し「シニフィエ」は

言葉の「見えない部分」に該当し、

「イメージ」の部分を指している。

「山」という言葉を目にした時、

あなたは何を「イメージ」するだろう?

富士山か?
エベレストか?
筑波山か?

何でも構わないが、

そうして今あなたの頭に浮かんだものが

「シニフィエ」ということになる。

これは「シニフィアン」のように、

「記号」や「音声」で捉えることのできるものとは、

根本的に違ったものであるのが分かるだろう。

「シニフィアン」が言葉の「物理的側面」であるとすれば、

「シニフィエ」は言葉の「内面的要素」に該当する。

「精神性の時代」において問われてくるのは、

言葉の「内面的要素」に当たる「シニフィエ」の方。

楽しむことが何より大事
ワクワクすることだけやればいい

スピリチュアルブームもあいまって、

「感性」や「フィーリング」に訴える言葉が飛び交っているが、

そもそも「楽しむ」って何だろう?

何をもって「楽しい」と判断するのか?

それは一人一人違うわけで、

「シニフィアン」は客観的に判別できるが、

言葉の内面を表す「シニフィエ」は

個人の「主観」や「解釈」によって

十人十色の見方がある。

例えば「野球は楽しい」と、

元メジャーリーガーのイチローさんが言うのと、

野球を始めたばかりの子どもが言うのとでは、

その意味は当然違ったものになるだろう。

「楽しむこと」が大事なのではなく、

「楽しむ」という言葉の「意味」を

どのように捉えるか。

すなわち一人一人の

「楽しむ」という言葉の「シニフィエ」が、

これからの時代は問われてくる。

実のところ「楽しむ」という言葉を

のべつまくなしに連呼するのは、

「楽しんで」いるのではなく、

「楽しませて」もらっているだけの場合がほとんどだ。

「楽しめ」という「講師」や「先生」の言葉を

空念仏のようにリピートするだけで、

自分では何も考えない。

それでは単に「テレビのアイドル」が

「セミナー講師」に代っただけで、

主体性に欠けるのは

従来と同様変わらない。

「楽しむ」という「シニフィアン」を連呼するだけで、

中身にあたる「シニフィエ」がともなわない。

「精神性の時代」とは、

名目としての「シニフィアン」ではなく

「シニフィエ」で繋がる時代だろう。

何を想うか。

表面的な言葉ではなく、

それに伴う「イメージ」や「概念」が問われてくる。

忘れてならないのは、

「シニフィアン」は一定だが、

「シニフィエ」は常に進化する。

例えば、

「悟り」という言葉の「シニフィエ」について、

精神性が高まってくると

「悟り」に関する「解釈」や「イメージ」に

どんどん「厚み」が出てくることで、

「シニフィエ」も同時に進化する。

実相の世界を言葉で表すことは出来ない

『黎明』を著した葦原瑞穂さんの言葉だが、

『「悟り」を言語化するのはムリ』と言明しており、

換言すると「悟り」は「シニフィアン」では表現し得ず、

「シニフィエ」による把握しか出来ないということになる。

「精神性」と「シニフィエ」はリンクしており、

これは「精神性の時代」における「厳しさ」を

我々に対し向けている。

同じ日本語を話す日本人でも、

「シニフィエ」がまったくズレていたら、

ほとんど会話は成り立たない。

「シニフィエ」が多様化していく「精神性の時代」において、

同等の「解釈」や「イメージ」を共有する者同士でなければ、

コミュニケーションがそもそも成立しなくなってくる。

これがいわゆる「二極化=多様化」に当たるが、

「二極化」とは少々オブラートに包んだ呼び方であり、

実際は「教養格差」と表現する方が妥当だろう。

「シニフィエ」を左右するのは「教養」だ。

「教養」の有無によって同じ言葉を聴いても

「意味付け」や「解釈」が変わってくる。

「シニフィエ」の「厚み」によって、

明確な「階層化」が進む時代。

「精神性の時代」は

「教養格差」に象徴される

冷厳な側面を持っている。

いいなと思ったら応援しよう!