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「寺子屋」というチート教育

江戸時代に発展した「寺子屋」が

優れた教育制度であるのは間違いない。

他のヨーロッパ諸国の識字率が

20%程度であった時代に、

日本の識字率は80%を超えており、

いかに読み書きに関するリテラシーが

発達していたかがうかがえる。

しかし逆に考えると、

これほど優れた教育制度でありながら、

なぜ「寺子屋」は海外で普及しなかったのか。

「寺子屋」が日本でしか普及しなかったのには

おそらく何かワケがある。

「寺子屋」がどう優れているのかを追究するのも大事だが、

「寺子屋」がこれほど優れた教育制度でありながら

日本でしか普及し得なかった理由を掘り下げてみると

日本人の特異な性質が浮かび上がってくるだろう。

「寺子屋」は一般に現代のような学校教育ではなく、

「対話」を通じ皆で議論を深めることで各々が才能を伸ばし合う

「双方向の」教育制度であったという。

「教師」が「生徒」に対し一方的に知識を詰め込み、

「正解・不正解」をジャッジするような

「一方通行の」教育ではなく、

一人一人が何をどう感じているか、

それをアウトプットすることで各々が見識を深め合う

「双方向の」議論が行われていた。

しかしこれは「言うは易く行うは難し」の言葉通り、

いざ実践しようと試みると

ほとんどの場合挫折することになるだろう。

各々が言いたいことを言うだけでは「カオス」にしかなり得ず、

まっとうな議論など望むべくもなく、

現場は崩壊するだろう。

「自由な議論」とは言いつつも、

完全に「野放し」にしたのでは

まっとうな教育など望めない。

自由闊達な気風を維持しつつ

議論を生産的なものにするのは、

ある種の「ジレンマ」とも言え

これらを同時に満たしたところに

「寺子屋」の特異性がうかがえる。

「自由」と「調和」。

自由な発言を奨励しつつ、

議論全体を調和的な流れに乗せることで、

各々が見識を高め合う。

こうした「場」を創るのに必要なのは

「ファシリテーター」の存在だ。

「寺子屋」の「隠れた立役者」こそ、

「ファシリテーター」ではなかろうか。

「寺子屋」のような場を創造するには

優れた「ファシリ」の存在が不可欠であり、

議論全体を「俯瞰」する必要があるだろう。

今どんなテーマが話されているか
誰がどんなことを言っているか
全員が議論に乗れているか
理解度に開きは生じていないか
etc…

「場」を俯瞰する「ファシリ」がいなければ

議論はたちまち空中分解し、

罵詈雑言が飛び交う罵り合いへと

たちまちのうちに変わってしまう。

組織論の世界では、

こうした場の流れを調える役を

CSO(Chief Spiritual Officer)と呼んだりするが、

江戸時代の日本には「CSO」に該当する高度な精神性を備えた者が

日本中にいたということだろう。

一般に「CSO」に見られる認識段階は

発達心理学で言うところの「ビジョン・ロジック」に該当するが、

ビジョン・ロジックが歴史において大々的に表れ出したのは

1960年代の「ニューエイジ」の時代であり、

「通説」と「日本の事情」がまったくもってズレている。

世界的な規模でビジョン・ロジックが表れるより300年以上も早く

日本人はそのレベルに達していたということであり、

こうした「精神性の高さ」がどこに由来するのか、

それを探ることで「寺子屋」はもちろん、

「日本民族のルーツ」にも迫ることが出来るだろう。

「CSO」は「霊的な」存在でもあり、

「場」を調える行為を「空間をホールドする」と表現したり、

そうして調えられた空間のことを「ホールディングスペース」と言ったりする。

これらは近年、

『U理論』などで言及され出した真新しい概念だが、

日本人はそれをとうの昔から実践しているわけで、

先人達の精神性の高さには驚きを隠せない。

実のところ「CSO」は、

やるべきことはほとんどない。

仕事と言えば

「ただそこに居るだけ」の場合がほとんどだ。

その場にいるだけで、場の空気を調える。

それが「CSO」の真骨頂。

これをもう少し押し広げて解釈すると、

「日本国」という組織の「CSO」が

「天皇陛下」ということになる。

言わば「フラクタル構造=相似形」に見られるように、

「天皇陛下の相似形としてのCSO」が日本には無数に存在し、

「寺子屋」を「ファシリ」していたことになる。

場を調え、皆の心を調和させ、共に心を高め合う。

こうした「組織論の本質」を

「アタマ」ではなく「身体で」理解しているのが

日本人ということだろう。

日本には「居住まい」や「佇まい」という言葉もあるが、

ただ「居る」ことや「在る」ことによる「場」への影響を

昔の日本人はハッキリと自覚していたことだろう。

それは「氣」や「集合的無意識」といった

「見えない世界」に関わるもので、

「寺子屋」は先人達の「霊性」の結晶として生まれたものだから、

それを現代科学で解き明かそうとしても、

たぶん「答え」は出ないだろう。

その意味で「寺子屋」は日本人の編み出した

「チート教育」と言えるはず。

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