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二叉路 第6回

前回↓

第6回 耕→六

 前回は「他人依存の充足と絶対的な自己充足」という対比を用いながら家の話に入っていた。僕の考えでは自分にとっての理想、期待、欲望、充足はある意味では「絶対的に一つ」であはるけれど、ある意味ではいくつもの位相の自分において存在するし、第1回の福田の言葉を借りるなら、小池耕は何人もいる。と断ったうえで、「家」に対する福田の捉え方には概ね同意する。『PERFECT DAYS』もこのあいだやっと観てきた。
 さて、僕は家の制約が身体に比べて弱いと言ったが、福田はそれを逆転させた。たしかに、そういえば僕は「身体が家の形になっている」「あくまで流動するのは暮らしではなく身体の方だ。」と言っていた。多分、無意識に受ける影響というレベルでは家の影響が大きく、一方「わたし」に輪郭を与えるというレベルにおいては身体の影響が大きいのでどちらも直感的に言えていたのだと思う。福田はカイヨワを経由しながら、身体が環境を模倣することやそこからの逃れ難さについて話してくれた。環境を模倣しつづけてしまう身体に閉じ込められたままで、僕らはどうすればいいかという問題提起が残った。
  
 うーん、逃れることも立ち向かうこともできないなかでの「ファイティングポーズ」、むずかしい。思いついたことから話してみる。
 
 まず、具体的であること、個別的であること、つまり何にも似ないということ、は大事だと思う。私が私でありあなたがあなたであり。僕が僕であり福田が福田であること。もちろん身体が環境のかたちに変化していくこと(似てしまうこと)に自覚的になる必要はある。具体性、個別性をもとめるにあたっては主体性を維持するのが肝心だけれど、身体という輪郭があることによって得られる主体性はかなり大きいから。やりようはいくらでもあるだろう。普通に暮らしているだけで人間は千差万別だし、無気力さにおいてもそれぞれ違う。似てしまうことからは逃れられないが、逆に言えばイデア的ななにかになることはなく、無限に「なにかと異なる」ことを追求できるということだ。例えば少しずつ自分のこだわりや好きなことを見つけるように。神は細部に宿るという。
 人間の身体において最も具体性・個別性を発揮するのは「顔」だろうか。顔があれば一旦あなたがあなたであると言える。最近読んでいた『ドゥルーズ 流動の哲学』では「顔」についてこう書かれている。

 「顔」は人間の身体の一部としての「頭」(頭部)を、記号の厳密な補完物にしてしまう奇妙な装置である。身体の一部が顔になると同時に、人間をとりまく環境は風景となる。

[1]

 ここでは顔の変化の方が環境の変化より早い(速い)。
 
 ところで、「身体」について。家や生活と同時に話を始めてしまったものだから、器官を有する物理的な身体と、器官を必要としない観念的な身体の話がごっちゃになっている気がする[2]。食欲性欲睡眠欲などにかかわる身体が前者で、模倣への欲望にかかわるのが後者だと認識している。ドゥルーズ=ガタリは「器官なき身体」という語を用いて、無限の潜在性を持つものとして後者を肯定的に捉えている。
 
 さてもう一つ。神にもなれず人間にも満足しないとして、どうしようかと考えたとき、仮面ライダーを思いついた。「変身!」だ。プリキュアでもセーラームーンでもいいが。僕は仮面ライダーディケイドが好きだった。ディケイドは平成ライダー10周年を記念する仮面ライダーで、ベルトにカードを差し込むことで歴代の仮面ライダーにさらに変身することができた。ぜんぶ。さいきょうじゃん。かっこいい。

 覚悟もなしに分裂病的に神や悪魔になりたがろうとする輩に対して「都合のいいことやってんじゃねえよ/言ってんじゃねえよ」と僕は絶対に言いたい。

二叉路第3回 六→耕 より

  これについてはもっともだと思うけれど、仮面ライダーは覚悟を必要とするのか?(なりゆきで変身することになってしまって、だんだん覚悟を決める、のが多い印象)
 とはいえ、変身は環境への適応・模倣とほぼイコールになってしまう。途方もない無気力も「変身」の一種であると言えてしまうし、「変身」した先が身動きの取れない芋虫かもしれない(「変身!」の掛け声はカフカ『変身』が由来らしい)[3]。じゃあどうしよう。
 
 かっこよければいいんじゃないか?デザインがよくてセンスがあって、もっと言えば必殺技とかあって。だけど、いったいどうやって?
 
 とりあえず部屋でポーズを決めて、「変身!」と叫んでみるのはどうだろう。
 

 
[1] 宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』2020年、講談社

レヴィナスは、顔を「他者」の顔として、「他者」の傷つきやすさ、壊れやすさの表徴として、要するに人間性のしるしとして位置づけ、「主体」の暴力に抗う根拠としていた。
(中略)
レヴィナスが語っているのは、人間と非人間を分割しようとする暴力にさらされて顔を失いかけた顔の状況である。

(同著より)

短歌において「顔」と言えば岡井隆の一節が思い出される。
 
[2]カイヨワが虫の生態から模倣の概念を引っ張り出したのが厄介ではある。というかそもそもがごっちゃになっているからそのまま考えてもいいのだけど。僕は社会活動や創作においての「器官なき身体」について考えながら、生物学的な制約(定型)から生まれる思想もあると思ったから三大欲求やそこから導き出される「家」を持ち出した。
 
[3]「変身」からはいろんな話ができそうだ。ドゥルーズの生成変化についても意識しながら書いている。
 日本神話にも見られる死体化生神話では死んだ神様が穀物や食べ物に変身する。食の話にもつなげられる。最近ようやく読んでた漫画「HUNTER×HUNTER」では、食べた生物の能力を得られるキメラアントという蟻が、数々の動物や人間(能力者など)を食べることで、神にも至る強さを手に入れていた。

 上に向かうも破壊、下に向かうも破壊、前にも破壊、後ろにも破壊。変化こそは唯一の永遠である。なにゆえに死を生のごとく喜び迎えないのであろうか。この二者はただお互いに相対しているものであって、梵(ブラーフマン)の昼と夜である。古きものの崩解によって改造が可能となる。

前回の注6から孫引き。岡倉天心『茶の本』

 ちなみに仮面ライダーディケイドのキャッチコピーは「全てを破壊し、全てを繋げ!」らしい。

◇ 

次回↓


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