二叉路 第3回
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第3回 六→耕
明確な応答から始めよう。まず、僕を「作家として、友人として」「分割してみることはピンと来ないからしない」という見方について。僕はそれに同意し、さらに、僕は作家ではないという立場を示したいと思う。
僕は今のところ、作家というアイコンを特別視していない。それは「作品」というものがピンと来ず、短歌を主に作品としてではなくテクストとして捉えているからだ。テクストすなわち書かれた言葉について第一に興味がある。書かれた言葉は大きく次のように分類できると思う。
①論文。知識の生産と伝達を主目的とする文章は広くそう呼ばれる。方法の一貫が期待され、多くの場合、実証的合理主義精神が前提される。②広報。新たな生産なき知識の伝達。集団が人との関係を取り結び、維持するためのもの。③レーニン的な宣伝(と扇動)[1]。政治動員に奉仕するかぎりでの知識の活用、表現。極言すると「仲間になれ」。④広告。極言すると「買え、金を払え」と解されるもの。そして、⑤文学。イデオロギーや経済的利益以外の関心にもとづいた生産は大雑把に「美的感性の表現」との意で作品と呼ばれ、それが文章である場合、文学として括られる。
③と④はイデオロギーと経済的利益をめぐる動員の手段であって、量としてもっとも多く、僕らが遭遇する頻度もダントツ。そのためどちらかといえば僕にとって大きく見えているのはこの二つ。これらと①、そしてメディアやアイコンがどう関わるかということが僕の主に考えていることで、noteでやりたいことでもある。その意味でnoteは作品ではないし、短歌もそうした営みの一部として捉えているところがある。
第二の応答は「ろくでもなさ」について[2]。
僕はこのようには考えていない。憂えてもいなければ抗ってもいない[3]。しかし読み、書き、話すことと大きくかかわるというのはまったく正しい。どういうことか。
まず、人は「総じて碌でもない」。これは暫定的な可能性ではなく絶対的な事実と言ってよく、これは広い意味での完成性や能力性について言っている。人は言い、書き、行う。しばしば人は「かく行う」との宣言通りに行う必要がある。言うこと(書くこと)と行うこととの一致を相互に期待することは社会関係の核である。すなわち、約束、契約である。もっとも典型的には、ある主権国家内での個人の経済的な自由は、暴力を行使しないという約束が成り立たせている(ホッブズの社会契約論)。
この約束の問題は次の次元において極まる。必ずしも明示されない、そして明示され尽くしえない倫理や道徳の次元においてである。僕らは多かれ少なかれ、上の契約的なあり方を他人にそして自分に根底的に望んでいるのだが、この次元にあっては達成することは不可能である。僕らの生は時間的、空間的な制約にずたずたに引き裂かれてあるからだ。疲労や退屈に翻弄されないどんな一日もありはしない。「言ってることとやってることが違うじゃないか」というつっこみは誰に対しても妥当だ。それは人間の悲惨さと言ってもいいし、もっとカジュアルにダサさと言ってもいい。
ここまでは存在性格からして至極当然の話だが、問題は、なぜ「(人は)総じて碌でもない」とわざわざ言わねばならないかということだ。それは、言葉がダサさを隠蔽したり、むしろそれを開き直ってみせるためにこそ用いられてしまうからであり、それが僕とって倫理的に許せないことだからだ。
僕らはみな、嘘をつくこと、はぐらかすこと、そして開き直っておどけることの必要と快楽を知っているし、それ自体は仕方がなくわるいことでもない。しかし、根本的なダサさを自分や他人から隠して神的に扱われるように仕向けたり、ダサさを改善しようとする心意気を捨て、明示的には責められないやり方で他人の努力を食い散らかして楽をしたりするやつが必ずでてくる。それは絶対に許せない。つまり、覚悟もなしに分裂病的に神や悪魔になりたがろうとする輩に対して「都合のいいことやってんじゃねえよ/言ってんじゃねえよ」と僕は絶対に言いたい。神は言い、書き、行う存在でない。神の言葉が発されるとき同時にその内容が実現される。「神の言葉は働く」とは、「言ってることとやってることが~」が生じさせる必謬性を神が持たないことを意味する。神だけがダサくない。それが偉大ということであって、人はいかなる意味でもその偉大を有していないということが碌でもないということだ。あらゆる契約は隣人の言葉をまさにその「働く言葉」であるかのように聴くべきだという信念を前提する。このことは神がいるかいないかという各々の信念とは関係がない。いるとすればそういう存在であって、それを反語として浮かび上がってくる人間存在について話しているだけだ[4]。
僕は、この意味で、あらゆる人は一度もっともみじめなかたちで地に叩きつけられるべきだと考えているだけだ。そして、そのことから逃れられると思っている人が踏みつぶしていくものを見つめていたいのだ。だから、「総じて碌でもない」とは揺るぎない。
「総じて碌でもない、というわけでもない」という二重否定は、偉大と悲惨の極に回収されることのない価値が確かにあるのではないかという想定からくる葛藤であって、そして、この図式にその余地がないのは単に「あいまいさ」に耐えられない僕の弱さが反映されているからだろうかという気づきの表現でもある。
要するに、人は面白い。小池耕は本当に面白い。それは言語と行為の関係からのみ由来するわけではない得体の知れない面白さであって、神もまたその創造的なダサさに憧れることもままあるだろう。「ろくでもなさ」と「あいまい」が繋げられたのでここで終わることにする。
◇
[1]
レーニンは『何をなすべきか』において、1902年3月当時のロシア社会民主党内において支配的だった「経済主義」を、大衆の自発性にたいする崇拝に陥り政治闘争と理論闘争を欠いていると批判。対して、インテリゲンチャによる「知識の注入」によって大衆ははじめて社会主義を獲得すると考えた。この注入に二つあり、一部の知的な労働者への科学と歴史を参照した理性的説得が宣伝であり、その他大勢の労働者に対して、感情や不平不満に直接訴えて行動を呼びかける手法が扇動である(この際なので読んだ)。ここでの整理にだけ合わせて言うと「対等じゃなくてナメられてる」ときの知識の使われ方。師→生徒。
[2]
「インパクト」ある記事として紹介されるのが「1月のこと2:国事」なのは意外だった。新聞を読んで何が起こっているか把握しておくというのは(自由主義と民主主義を前提する「市民」という自己認識ならば)誰でもできるし誰もがやったほうがいいと思っていることだから。僕は特別やりたいことがなく暇だからやっているだけで。
[3]
注2に続けて付け加えるならば、社会を良くしようとは全く思わないどころか、その発想そのものがまったくの悪であるとさえ言える。これは僕の特別な意見であるというよりもみんなが前提していることだけれど。
[4]
宗教の話でないどころか、もっと進んで「反信仰」を企てるということをずっと考えている。特別な意識を持たない限り、人は人になんらかの神性を与えたがってしまう。(かっこいい)(かわいい)とか(なんとなくすごい)(天才ですね)とか。その後ろに「だから」で繋いで人の尊厳が踏みつける要求が続くことがしばしば。そういうサボりを吹き飛ばすには多分に侮辱的にでも「神」を利用するのがいちばんいいと思っている。
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