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二叉路 第8回

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第8回 耕→六

 第6回はたしかに混乱していた。自分でも原稿を送ってから「やばいかも」と言うか迷った。「ありうべきファイティングポーズとはいかなるものか」を突っ返す読解と勇気がなかったのは僕の落ち度だ。「あるいは僕もろとも一緒に転んでいるか?」いやいや。僕が(人が)転んでいるときにちゃんと「なにしてんねん」と言ってくれる人はなかなかいない。すまない。ありがとう。

 さて、しかし、僕が考えていたことは、書き方が悪かっただけでそれほど悪い線ではないと思っていて、というのは件の第6回の最後に「「変身!」と叫べ」みたいな変なものが飛び出したからだ。変なものが飛び出すのは僕にとって結構重要だし感動的なことだ。(それでついそのまま送った感じだった。)だから、あんまり切り捨てすぎずに話してみる。

 僕が身体や家に制限されながら、無気力にさいなまれながら、でも楽しくやっていけるのは生活を彩ることができるからだ。しかしその「彩る」も際限なく身体と家に規定されてしまう。そこで期待するのが、何かを選び取りそれに身を捧げることではないだろうか。それが冴えないヒロインや、仮面ライダーや、パーフェクト・デイズだったりするのだろう。そうして抜け目ない奉仕によって「あいまい」から逃れ「ろくでもない」から逃れ、生活をパーフェクトに彩ることができる。だがそんなこともまた不可能だ。僕たちは神ではないし善を貫徹することもできない。ただ、変わり果ててしまうことを恐れる必要はない。僕が「変身!」と叫ぼうと言ったのは何かに身を捧げ、変わり果ててしまうことに対して積極性を持つべきだと言いたかったからで、本当になれるとは思っていない。虚勢を張るような、空回りするような馬鹿らしさが「変身!」の叫びにはあるけれど、馬鹿なことをすればいいと思う。簡単に仮面ライダーになんてなれない。でもなれるんじゃないかといつでも期待して準備するくらいがいいと思う。諦めながら信じること、によってこそ境界線が傷つけられる。世界は何が起こってもおかしくない。
 『PERFECT DAYS』という大層なタイトルでどんなパーフェクトが描かれるのか緊張していたが、ヴェンダースが結局ただの人間を描いてくれたことにまずは安心した(と同時に残念ともやっぱり少しは思った)。急に家出した姪が転がり込んできたり、見知りの女性にキスされたり、行きつけの店が空いてなかったりする。平山自身が選び取ったその生活はかなり完璧に近いだろうけれど、完璧には至らない。というのが僕の感触だ。
 謎のオーラを纏ったOLがこっちを見つめてくるシーンが好きだった。あの強度(強くなさ)のリアリティすごすぎる。

 生活は、ありのままではあまりに汚く残酷な「生存」を包み隠す営みだ。洗剤や調味料の質量と価格は僕を戸惑わせるけれども、それをのっぺりと引き伸ばして日割りにすると薄い膜が出来上がる。これが何重にもなって僕たちの生活は彩られる。彩る、と明るく言うものの、過酷な営みだ。完璧には決して至ることができないながらも漸近しようとする。決して埋まらない溝がそこにはあって、どうにかこうにかするのが、しんどさで、喜びだと思う。そしてそこに独創性が現われる。独創性は模倣と対立しない、模倣を無数に集め組み合わせた得体の知れないものだ。このとき僕はフラクタル構造や迷宮を思い浮かべる[1]。ここで僕たちが生み出す「あいまい」は確かに既に仕組まれているものかもしれないけれど、それは何かをあきらめる理由にはならない。自分のなかで煮詰めに煮詰め、誰よりもよっぽど複雑で奇妙になった自らの生活を、それとして抱え、信じることだ。

 で、そんなことをしていたら、短歌ができたりする。この「短歌」なるものはなんなんだろう。僕は芸術のことを考えるとき、噴出するイメージを持つ。太陽フレアのイメージがある。生活をふつうにしんどく楽しく、やっていたら突然その、自分で煮詰めた得体の知れない何かが、完璧という表面を突き破って出てきてしまうのだ。そしていつの間にかそれは弧を描きながら表面に戻り、生活に消えていく。このグロテスクな噴出の瞬間を捉えきるのは難しくて、だいたいは生活に帰ってきたときに「なんだったんだあれは」と思い出すことしかできない[2]。ただ、芸術にみえてもちゃんと噴き出ないものもあるし、噴き出てても僕にとって面白くない物もあるし、単に生活としてセンスが抜群にいいものもあるだろう。そこらへんはいろいろだと思う。

 この生活の煮詰め方と芸術の噴き出し方の二つ、これがより良い(善い)ものであることを望むけれど、これが最近の僕の関心かもしれない。生活において良さを担うのは「隠すこと」で、そこに品性やセンスやかっこよさが出てくるのだと思う。なにか隠し忘れているものがあれば下品だったりかっこ悪かったりする。一方で芸術の良さは……人や場所によるとしか言えないか。よりその人が思う美しいしかたで噴出するしかないのか、どうだろう。そんなわけで、品性、センス、かっこよさ、について僕は気になっている。

 左川ちかの詩を引いて、渡す。

刺繍の裏のやうな外の世界に触れるために一匹の蛾となつて窓に突き当たる。
死の長い巻鬚が一日だけしめつけるのをやめるならば私らは奇蹟の上で跳び上がる。
死は私の殻を脱ぐ。

[3]

[1]前回「顔」と言ったのはこのフラクタル、迷宮、もしくは万華鏡のことを言いたかったのだろうと思う。内臓と言ってもいい。自分の歌にはなるが引く。

 頭髪を掻き分けていき内臓が繰り出ているような耳へ蔓

/小池耕「ねじれて回る」『つくば集第3号』

[2]
思い出す歌をふたつ。

頭痛では捉えきれない噴水がてっぺんに達した瞬間を

/篠原治哉「身体はうたう」『新しい球技』

茎を折つてふきだす液(ジユウス)をみてゐるは愉しきことなりなみだふきふき

/加藤克己「敗北それから」『螺旋階段』、民族社、1937年


稼働率とは何なのか調べないままでいる へそにフリル

/福田六個「蚊と肺の章」『つくば集第3号』

 こういうわけわかんない「へそにフリル」とかが出てきちゃってるのが本当に面白い。

 もうひとつ詩を引く。

皮膚の下の身体は加熱したひとつの工場である、
そして、そとで、
病者は輝いて見える。
炸裂した
そのすべての毛穴から
彼は輝きだす。

アントナン・アルトー『社会によって自殺させられたヴァン・ゴッホ』1947年
宇野邦一『ドゥルーズ 流動の哲学』2020年、講談社 から孫引き。

[3]左川ちか「死の髯」『左川ちか全集』川崎賢子 編 2023 岩波文庫 

最後の一節「死は私の殻を脱ぐ」という逆転にも関心がある。生活の煮えたぎりと界面、噴出としての芸術という図式が不意に逆転する、ということは、直感だが、あると思う。



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