二叉路 第10回
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第十回 耕→六
過度に華美な服装が下品だと言われることがある一方で、露出が多い服も下品とみなされる。校則がそれを縛ってくれるおかげで僕らは適当な創造性を発揮する。生活の中に創造性を発揮する場面はいくつもあって、その布に刺繍を施すか、穴をあけてみるか、そのままにするか、自分で選ぶことができる。(ちなみにここでの「穴をあける」は素肌を晒してはいるものの、素肌の凹凸から布の凹凸に目を逸らさせるという点で隠蔽の一種と言えるだろう。)第十回まで来てぜんぜん短歌を引いてはいないけれど、ずっと短歌の話をしていると思う。短歌のまわりの話、というか、短歌の話、定型の話、韻律や叙景の話を直接しているつもり、とすら言いたいけれど、それは短歌の懐の広さのおかげ/せいだ。
我妻俊樹のこのツイートをずっと覚えている。
食べ物の話をしてみよう。新年度が始まって忙しいくせに料理に時間を割きすぎている。
料理における定型は、空腹具合、冷蔵庫の食材、賞味期限、キッチンの広さ、時間、などなど。僕は特に、肉と野菜を一つずつは必ず入れたいので、それも条件に入ってくるし、キッチンが狭くてコンロも一つしかない。それで逆に燃えてくるみたいな。最近は一食を250円以下に抑えるように頑張っている。冷蔵庫の前に椅子を置いてあってそこで献立を10分くらいうんうん唸りながら考えることがあって、しょうもなくていい時間だと思う。けんた食堂とバシャウマのshorts、あと長谷川あかり(@akari_hasegawa)(平岡直子がおすすめしていて知った。)のレシピが好きだ。
余談だが、けんた食堂のこの回はすごい。
いいじゃないか。セブンティーンアイスはグレープだけで、コンビニで買うのは炭酸水で。そこには少しくらい、「自分でこだわって選んでいる」という自負と自尊があるはずだ。僕が学食で買うパンは、子どもみたいだが決まってカレーパンとメロンパンの二つだ。去年の秋に決まった。しょっぱいのと甘いの一個ずつでなるべく安く済む組み合わせ。水筒の麦茶がおいしい。小松海佑の言葉を借りるなら「本気出してるから」だ。
もちろんどこまで行っても刺激されるのは触覚で、幸福物質を出すのは脳みそだけれど、どこまでが本能かなんて解釈次第で、美的感覚が介入する余地がないわけではない。僕が「あまりに汚く残酷な「生存」」と思うのは、飢えているばっかりにスーパーや冷蔵庫にある食料を手あたり次第口に放り込むような、それくらい怠惰で動物的なことだ。
確かに、完全食で生きている人からしたら僕がほぼ毎日のように自炊しているのは自慰行為や狂信にしか見えないかもしれない。逆もまた然りだが、例えばそういう悲しいことを言う前に、その人と3時間くらい話してみたい。文通でもLINEでもいいけれどやっぱりなるべく一対一で、顔見て話したい。誰とでも歌会をたくさんしたいと思っている、のは福田も同じだと知っている。
定型やら場やらに喋らされないこと、を考えていると、ネット上で短歌を評するのは苦手だなと思い出す。評を自分の言葉でするようにしたいのだけど、不特定多数に見られていると思うと難しい。パフォーマンス的になってしまったり、そうでなくてもそう読まれるのをやけに警戒してしまう。波はあって、できるときもあるけど、基本的には苦手だ。だから福田が最近日常的にネプリを出して日記に短歌が並んでるのをみて素直に良いな、と思う。評になりきらない短歌への話し方をもっと探るべきだと書きながら思っている。
思えば福田がいつかに書いていてくれた内容だ。生活と芸術について言おうとしながら、というかそのせいで僕も結構困っている。
歌会という閉じた場で半強制的な「選」と、ネット上で数あるネプリや歌集のなかから短歌を引いてくるときの「選」は僕の体感としては全然違う。福田が生活をさらしてくれたりnoteやインスタを更新してくれるのは、僕らはほんらい対等だろう?という啓蒙にすらみえるし、それを見れるのは「隠す」人からすれば喜びで、かっこよさとして目に映る。画面の中のアイコンとしてしかみえない人に対してこちらも「隠す」ことで対等であろうとしているのが僕で、徐々にびくびく開示していくしか仲良くなるすべがない。僕が吟行の引率とかが本当に苦手なのは、基本的に一対多で空間の範囲とかみんなが向いている方向が全然わからなくて、僕が「こっち行きましょう」と言うときに「いや全然自由にしといてもらっても大丈夫で、」みたいな目と声でいてしまうからだ。
一対一か、一対一対一対・・・一(歌会)がいい。二叉路は一対一対多で、また違う感じだ。
単に感動を伝えることが、どうしてこんなに難しくなってしまったのだろう。
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