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二叉路 第1回

まえがき

福田六個と小池耕の二人で「二叉路」というnoteの連載を始めます。
福田と小池が交互にお互いへ向けて何かを話すという形式で、毎週火曜日、全10往復(20回)くらいを目安に連載する予定です。短歌の話は必ずしも含まれませんし、話がどう転がっていくのか、二人とも分かりません。
ただ話したいことを話します。

第一回は福田六個から小池耕に向けて。



第1回 六→耕

 往復書簡、第一回目。最初にはっきりさせておくべきことがあります。すなわち「僕は一体誰と文通するのか」。小池耕は何人もいる。あるいは無数にいるかもしれない。この問題を最小にまで縮めてしまうならば、「手紙の宛先は、僕の友人であるところの小池耕か、(短歌)作家であるところの小池耕か」ということです。この文章は、ごく私的なラブレターでもなければ「公開往復書簡」という形式の共同作品というわけでもない。その中間です。厄介だが単純なことに、今ここで僕が決めた相手にこの手紙は宛てられる。僕は今から、友人であるところの小池耕に宛てて書きます。ただし、この回に限って作家・小池耕をもっとも有力な話題にすることを伴って。
昨年よく話題にした短歌から話を始めよう(疲れるので敬体を解除する)。

みんな野球 河川敷にはまだまだ得体のしれないものがたくさんあるのに

/小池耕「賽の道草」『ぬるい水連絡帳』

小池短歌の一側面に「あいまいなもの」への着目がある。もちろんこれは多くの現代短歌作家に見出せるが、固定化されたもの、確定されたものからの逃げ方に小池の特色があるように思う。その逃げ方は、引用歌において(社会的に・写実短歌的に)確定しやすい野球の内実は明らかにされないというよりも目に入らず、しかし「みんな野球」とだけ把握はされている、という点にあらわれる。把握は確かである、という微妙な逃げ方によって、「河川敷」が「あいまいなもの」の乗り物としてうまく機能する面があるだろう。
つづいて、短歌連作「ねじれて回る」(『つくば集第三号』)について。連作全体での表現をみる場合、「あいまいなもの」への着目は通じるが、そこでは異なる「あいまいさ」への態度が煉りあわされているようだ。すなわち「あいまいであろうとする」ことへの執着である。対象の性質を私が模倣し、私の性質を対象が模倣するという現象はよくあることだが、この強化循環が動性を与え「あいまいさ」がそれを享受しているのがこの『ねじれて回る』であると思われる。
 年末ごろ、カイヨワについて二、三言話したのは、文明と遊びを規定する社会的本能のうち、彼が最も重視したと思われるのが模倣であることと前述の気づきとのつながりが頭にあったからだ(『遊びと人間』)[1]。これについても考えたいことはあるのだが、この書簡全体を通して主に考えてみたいテーマはこの先にある。それはこういうことだ。「あいまいなもの」は確かに存在する。しかし、「あいまいな人間」は存在するか。僕は存在しないと思っている。もう少し具体的に述べてみる。なるほど、小池耕作品の中の主体や作家としての小池耕はあいまいであるかもしれない[2]。しかしその彼は小池耕作品群が分泌するメディア表現ではあっても実際の人間ではない。僕らは「得体のしれない」ことを考えることはできるが、そのことは、日本国/政府という政治体制から見たときの個人をまったくあいまいにしない。日本語を用い、日本円を用い、日本国籍をもって日本領土に存在しているという点で、完璧に安定した圏域の分類のもとに置かれている[3]。

 さて、無数の小池耕のうち、まだ話題に挙げていない彼について。noteに投稿された「2024年の抱負」を抱くところの小池耕についてである(この記事とても面白いのでぜひ読まれたい)。https://note.com/koikekouen/n/n68d5075f8430?sub_rt=share_pw

彼は友人・小池耕のようでもあるし作家・小池耕のようでもあるがまったくの別人である。彼のなかでは、上にみた模倣の強化循環が無数なる小池耕のあいだで起こっている。そして、主に生活と制作(芸術)とのあいだでも相互的な模倣が起きている。芸術的な生活と生活的な芸術が似てくるという構想は、実はとても特殊なものであると僕は考えていて、このことは「あいまいさ」と「多彩=多才」との結合とも結びついていると思う(このことは次回以降にくわしく述べたい。『PERFECT DAYS』の話とともに)。

 僕に見えている小池耕たちについて話した。そのうえで僕の友人に聞きたいのは、抱負であるところの「冴えない彼女の育てかた」についてだ。その言葉が暗示するところの他の面について。あるいは多彩、万華鏡について。そして正面から、人間と生活について。



[1]僕のnoteに要約を書いたので紹介しておく。

[2]この並列は乱暴かもしれない。僕は原則として実作者と作中主体とは分離すべきだと考えている。この手紙は、上述の「強化循環が起こっている」という思い付きの仮説にしたがって、さまざまな小池耕を設定するという特殊な扱い方をしているため、上の原則を逸脱するようにも見える表現を取ることになった。原則が作品評に適応されるものである点、これが僕の友人に宛てられた手紙である点を併せて考慮されたい。

[3]別の例も挙げておく。ダグラスによると、汚穢は無秩序で未分類なものであり、秩序を侵すゆえに忌避される。「あいまいなもの」は近づいたり触れたりしてはいけないもの=禁忌として秩序に外づけされるのだ(『汚穢と禁忌』)。でもあくまであいまいなのは「もの」だ。人ではない。人と人とが関係づけられるのがここで言われる秩序(あるいは象徴体系、共有された妄想)であって、秩序は人間をあいまいにしておくことを許さない(ふたりの専門に関連することも入れておきたいと思った)。

福田六個のnote↓

次回↓


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