韓国では土地の価格が高騰し、貧困層が農村部のビニールハウスに住まざるを得ない状況が社会問題化している。 今作では、シングルマザーの介護士、居候先の男から性虐待を受けている知的障碍者、少年院を出所した不良少年たちの行き着く場所としてビニールハウスが登場する。雨風が吹けばすぐに壊れてしまいそうなビニールハウスは、彼らの安住の棲家にはならない。 訪問介護士として働く主人公のムンジョンは、認知症の女性を入浴介助している途中、ふとしたきっかけで殺人を犯してしまう。途方に暮れる
キャッチコピーは、「その〝秘密〟が私を強くする」。秘密は絆を強めるが、同時に亀裂が生じることもある。その危うさと美しさを、済州島の雄大な自然を背景に、キム・ダミとチョン・ソニ二人の若手実力派女優が熱演している。 両親から愛され何不自由なく育ったハウンと、孤独な心を抱えた転校生ミソは、自分にないものを相手に見出し惹かれ合う。 二人の違いが顕著に表れているのは、唯一の共通の趣味である絵だ。写実的で基本に忠実な絵を描くハウンと、型破りなミソの抽象画は、二人の生き方そのもの
強烈な「臭い」を感じる映画だ。焼けた襖、汗、火薬、暗がりの中に佇む傷病兵たちが垂れ流す汚物。それらは戦争を語る上で避けられない臭いであり、生きることに直結する臭いでもある。 映画を観る前は、予告編やチラシの印象から、戦争で夫と子どもを亡くした女と戦災孤児が、心を寄せ合う話だと思っていたが、すぐに打ちのめされた。『鉄男』で鮮烈なデビューを果たし、最近では『野火』『斬、』で戦争に向き合い続ける鬼才塚本晋也監督が、そんな生ぬるい映画を撮るわけがない。 終戦直後の東京。家族
もしも宝くじが当選したらと考えたことは誰しもあるだろう。何に使おうか、誰にどこまで打ち明けようかと思いを巡らせるのは楽しいが、現実には様々なトラブルがつきまとう。 今作は、そんな宝くじにまつわるトラブルを、朝鮮半島の南北問題にまで発展させたドタバタコメディだ。 ふとしたきっかけで一等当選くじを拾った韓国軍の兵士チョヌ。喜びも束の間、くじが風に飛ばされ軍事境界線の鉄柵を超えて、北朝鮮兵士ヨンホの手に渡ってしまう。 紙切れの正体がわからないヨンホが同僚に見せると「こ
黒柳徹子が自身の幼少期を書いた『窓ぎわのトットちゃん』のアニメ映画を、小一の娘と観に行った。 落ち着きのなさゆえに地元の公立小学校を退学となったトットちゃんは、自由な校風のトモエ学園に入学する。 子供の自主性を重んじる校風というと聞こえはいいが、現実は綺麗事ではない。トットちゃんが汲み取り式のトイレにお気に入りの財布を落とし、柄杓で汚物を掬い取る場面がある。夢中になって作業を続けるトットちゃんに、校長先生は「元に戻しておけよ」と一言言うだけ。 子供の意思を尊重し
「男しか出ない映画に駄作なし」 映画を見た後、淀川長治の名言が頭をよぎった。本作は韓国の少年院を舞台に繰り広げられるクライムサスペンスである。 クリスマスイブの夜、何者かによって惨殺された双子の弟ウォルの仇を討つために、主人公のイルは自ら少年院に入る。弟の死に直接関わった不良グループに復讐するためだ。 暴力と賄賂が横行する少年院は、韓国社会の縮図だ。弟を殺したと思しき囚人は、父親が実力者というだけで優遇され、後ろ盾のない者は看守や他の囚人たちから搾取されている。
息子による父親殺しは、神話から始まり古今東西の作家を夢中にさせるモチーフだが、本作ほど過酷な宿命を背負わされた主人公は少ないだろう。 主人公の少年ファイには、たくさんの「父」がいる。幼い頃に身代金目的で誘拐された彼は、そのまま犯罪者グループに育てられ、5人の「父」から愛情を受けつつも、犯罪スキルを仕込まれる。 儒教の教えが根強い韓国において、父の存在は絶対だ。リーダーであるソクテの命令によって、初めて人を殺めたファイ。その相手が自分の「実父」だとあとで知り、5人の「
母親の子供に対する愛情がいつも悲しいのは、常に片恋(かたおもい)だからである。そう語ったのは寺山修司だが、今作を観ている間、私もこの言葉を思い出さずにはいられなかった。 高校生のギガンは、退屈な田舎に嫌気がさし、女手一つで育ててくれた母を捨て、悪友と共に都会を目指す。彼を突き動かすものはただ一つ。「自分はいつか大物になる」という根拠のない自信だ。 80〜90年代の急速な経済発展と、ギガンの勢いがマッチしている。何のためらいもなく母や故郷を捨ててしまうのも、時代の雰囲
自殺者のニュースが後を絶たないのは、日本も韓国も同じである。貧困、格差、コロナ禍による断絶など理由は様々だが、死が唯一の救済になってしまう現状を変えない限り、自殺者が減ることはないだろう。 本作の内容は、タイトルの通りである。自殺請負人のSは、自殺を「人生の休息」と肯定的に捉え、ネットで自殺志願者を募っては、「休息」へ向かう手助けをしている。 彼の元には様々な事情を抱えた者たちが集う。前衛芸術家のマラは、自分が思い描く理想のパフォーマンスを求めて。水商売の女セヨンは
猫を飼うようになってから、猫が出ている作品が苦手になった。飼い猫を外に出しているシーンが多いからだ。完全室内飼いが常識になった今では、違和感しかない。話の構成上仕方がないと思うが、そこばかり気になって、物語に集中できなくなってしまった。 その点『ごめんね、ありがとう』は、安心して観ることができた。いずれもペットと人との関係を描いた短編四遍『ごめんね、ありがとう』『チュチュ』『私の妹』『子猫のキス』からなる、韓国のオムニバス映画だ。 『子猫のキス』の主人公へウォンは野
「殺されたミンジュ」のミンジュとは何か。映画冒頭で何者かによって殺された少女の名前だが、韓国語で民主主義を意味する言葉でもあるという。常に体制に対する怒りを描いてきたキム・ギドク監督だが、「殺された民主主義」に対する怒りが今作ほどストレートに伝わってくるのも珍しい。 プロのカメラマンを使わず、監督自らが撮影するスタイルは、正直洗練された映像とは言い難い。その分隣人の事情を盗み見ているような臨場感がある。 少女の父親は復讐のために、ネットで仲間を募る。彼らに軍服を与え
山深い渓谷に囲まれた寺院を舞台に、一人の僧侶の生き様を描いたキム・ギドク監督の傑作である。 主人公の幼年期、少年期、青年期、中年期を、美しい四季の映像と共に、詩情豊かに描いている。特に少年期のソ・ジェギョンと、青年期のキム・ヨンミンの演技が素晴らしい。 修行僧の身でありながら、寺に静養に訪れた少女と恋に落ち、小舟や岩陰で激しく求め合うシーンが印象的だ。思春期の旺盛な性を描くには夏しかないと思わせる説得力が、画面から溢れている。 やがて二人は駆け落ちするが、青年とな
街で知らない人から突然声をかけられ、誰かと間違われた経験は、多くの人が一度や二度はあるだろう。 だが、10年前に家出した娘のフリをして、危篤状態の父に会ってほしいと懇願されたら? 普通なら相手にしないだろうが、今作のヒロインは渋々ながらも引き受けてしまう。 ヒロインのポギョンは、大都市ソウルに生きる孤独な若者を象徴した人物である。常に歯ブラシなどの「外泊セット」を持ち歩き、根無草のように生きている。 そんな彼女が連れて行かれたのは、危篤状態の父がいるという、農村
今作は、職なし金なしの女が、別れた男から借金を返済させるため、二人で金策に駆け回る1日を描いた韓国のロードムービーだ。 原作は平安寿子の同名小説である。抑制された演技と、余白の多い演出からは、日本映画的な情緒が感じられた。 冒頭、ヒロインのヒスが険しい顔で赴くのは、ソウルの競馬場。一攫千金を狙うダメ男ビョンウンを説得し、車に乗せるところから、物語が動き出す。 返せる当てがあるからと、ビョンウンの案内で向かう先は、懇意の女社長や元カノなど、ただならぬ仲の女たちばか
この映画を一言で表すなら「明るく爽やかな親子丼」がふさわしい。親子丼というのは、もちろんアレの隠語である。 主人公は50歳の中年女性ドンフン。韓国の下町で、夫とカラオケ店を経営しつつ、自宅の学生下宿も切り盛りしている。 妙齢の一人娘チョンユンは、下宿の大学生グサンとの結婚を目前に控えた矢先、書き置きを残して家出してしまう。やけ酒を飲み悲嘆に暮れるグサンを介抱するドンフン。やがて二人は恋に落ちる。 ボサボサの髪にたるんだ身体のドンフンが、恋を知り、身なりを整え若々
「生きづらさ」を抱えた登場人物が、最後に自分を解放させる映画が私は好きだ。自分で考え行動する、その過程が愛おしい。 「マドンナ」の異名を持つ街娼のミナと、看護師としてVIP専用病棟で働くヘリム。今作はこの二人の女性に焦点を当て、韓国社会における女性の「生きづらさ」をあぶり出す。 なんの共通点もない二人を繋ぐのは、病院の会長の息子サンウである。彼は老衰で今にも亡くなりそうな父を延命するために、新鮮な臓器を入手するべく画策する。 そこへ男たちに陵辱されて意識不明の妊