目的と目処 プラグマティックメディスンの哲学的基礎
今回は、プラグマティックメディスンの根本的な考え方、というか基本的な哲学のところを少し考えてみたいと思います。中動態の議論から、國分功一郎先生の新刊「目的への抵抗」などからインスパイアされたものも混ぜ込んで、現時点での考えのまとめです。
まずは以前述べました「動脈的視座」と「静脈的視座」の対比です。この対比から、この医学の特徴が明確になってきます。
この対比に近い概念を挙げていくと、統計学では記述統計の考え方とベイズ統計の考え方の相違に近くなります。つまりすべてのデータを網羅してから結論を導くか、現時点での現在進行形の不十分な状態から推測していくか、です。
これらは総合診療の領域などではいわゆる「エビデンス」と、現場における臨床決断の方法論の違いとして扱われることが一般的ですが、プラグマティックメディスンの射程はもう少し広がりを持ちます。そうした意味では能動態と中動態の対比で議論される領域の方が近いでしょうか。
能動態と中動態との対比は、自由意志による責任と、漠とした選択との対比とも言え、いわゆる目的を持つということにも関連してきます。つまり「目的」を持つということは、そこに明確な意思が働いているわけで、当然「手段」も発生してくることになります。
明確な目的を持つというコトは、明確な手段に基づくというコトになりますので、それは確固たるデータに裏打ちされているに越したことがない、となるでしょう。とすれば、エビデンス重視といった姿勢までもう一息です。
この辺りが「プラグマティズム」という思想の難しさ、曖昧さなのでしょうが、これもある意味で「事後」の結果を重視するということでもあります。パースのいうプラグマティズムの格率は、こちらに近いように思いますし、それゆえに科学思想の基盤としても使える考えなのでしょう。それに対して、ジェイムズのプラグマティズムは、結局は内面的なモノを重視したところにその特徴があります。
それゆえに、彼の思想を敷衍すると「多元的宇宙」の考えに到達していくことになります。代替医療の発展、ならびにその後の統合医療への展開は、歴史的にも、哲学的にも、こちらのジェイムズ思想に親和性をもつと考えられるので、ここではプラグマティックメディスンの基本はジェイムズの思想によるということにします。
目的合理性の考えは、当然我々に染み付いているわけですから、それらをなくすなんてことは到底できませんし、その必要もありません。しかし、それ以外の(オルタナティブな)視点が、時に存在することも必要です。医療においては、確たる目的にすべてを還元させては、様々な場面で問題が生じてくるように思います。
今回のコロナ禍における、いびつな意味での(医療的)生命至上主義です。さまざまな価値観が並行的に存在する現在の社会において、価値観の多元性を一切認めないという姿勢に対しては「生存以外にいかなる価値をも持たない社会とはいったい何なのか?」といった疑問がアガンベンから呈されている通りです。
すべてのモノに明確な目的と手段を求めなければならないのか、プラグマティックメディスンは、この姿勢へのオルタナティブな解答例とも言えるかもしれません。いわば確たる目的ではない、漠とした目処、といったところでしょうか。この姿勢を、ここでは中動態を援用して説明してきました。
つまり確定的意志があるわけではなく、漠たる選択により進むことも時に必要ではないか。確たる目的にすべてを還元させることなく、中動態的に流れの中で決まっていく。
明らかに間違っていると思うものは選択しないが、明らかに正しいか否かには必要以上に執着しないという姿勢です。これは絶対正しいというものを指摘することはできないが、絶対違うというものは指摘できる、という姿勢でもあるわけです。
また方法論、つまり手段に固執しないという面もあります。正しいから一つの方法を選択するというよりは、その方法論が好きだから選択する、という姿勢をも肯定するわけです。何かのためのゲーム、という視点ではなくゲームのためにゲームを楽しむ、ということになります。例えるなら猫好きが、ネズミを捕る猫だから愛するのか、ただ猫だから愛するのか、といったところでしょうか。(まあ令和にネズミ捕り目的なんてないでしょうが(笑)
直感や第6感など、我々はいろいろな用語でこうした感じを説明することが可能ですが、もはやその目的を至上としなければ、そうした説明原理を駆使する必要すらありません。
明確な意思による「目的」である必要はないわけです。目処が立つ、と外的に表現されるような、中動態的な表現で用いられる「目処」くらいの感じです。やや遠くに漠とした希望する将来、そしてそこに辛うじて焦点するようなベクトルを有する方法論。
この緩やかな、それでいて縮退しないシステムこそが、プラグマティックメディスンと表現するモノに近いのではないか、と思います。
國分先生の著書で紹介されているアーレントやベンヤミンによる「目的なき手段」と称されるものの議論はこうした感じに近いのではないだろうかというのが、今のところの私の考えです。
別角度から見れば、曖昧なモノを擁護するような理論展開ではありますが、マクロ的に考えたときこれらはあらゆる縮退する現象に抵抗するモノであることに気づきます。
プラグマティックメディスンの考えは、縮退の流れに抵抗する方法論の一つであるということにあらためて気づかされるわけです。
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