『科学を語るとはどういうことか』読後メモ
なかなか難解かつ不快で、それでいてある種の爽快感のある本をやっと読了しました。科学哲学関係ではあるのですが、対談ですので通常の哲学書のような難解さとはちょっと異なる本です。対談本にありがちな予定調和が外されているので、読みにくいし、「分からず屋」に対する不快感も涌きだしてくる、そんな感じの変わった本でした。題名は『科学を語るとはどういうことか』。物理学者の須藤氏と、科学哲学者の伊勢田氏による対談本です。ここまでの解説で、ご興味ある方はぜひ読んでみてください(笑)
対談本で「けんか腰」の姿勢が見られることはほとんどありませんが、この本はまさにそれ。かつての「朝まで生テレビ」を彷彿とする言い合いです。(分からず屋に対してキレかかるところはなかなか通常の本ではお目にかかれません)
巻末の方で、伊勢田氏が書かれているように、読者の反応も真っ二つに分かれるようで、「科学」というものへの姿勢の違いが如実に現れます。(と、解説されますが私個人としては、須藤氏が理解してなさすぎ。物理学の権威者としての威圧を随所に感じます)
私自身は、伊勢田氏の見解に大賛成なので、須藤氏の反論は言いがかりにしか聞こえず、頭が固いにもほどがある、という感想を終止感じました。よくもここまでの「分からず屋」に、伊勢田氏は粘り強く、丁寧に説明できるものかと感心しどおしです。「科学」という概念を確立したものとして固定的にとらえるか、ある種の歴史的産物として軟らかくとらえるか、が両者の大きな相違点と言えるかもしれません。
科学哲学・科学史的な書籍を読んでいた大学時代、ガチガチの古典物理的な同級生に「非科学的だ」と非難されたときの不快感が、30年以上の時を経て(笑)蘇ってくるようでした。こうしたことから、読了までに疲労感を強く感じたのかもしれません。また「科学」という語のもつある種の巨大な権威も、あらためて再確認できました。
そもそも著者の一人の伊勢田先生(ここからは敬称変更します)は、今年の統合医療学会(静岡大会)に講師として招聘する先生でもあるので、『疑似科学と科学の哲学』などを読み直していた際に、アマゾンで見つけたのが本書でした。初版は2013年なので、決して新しい書籍ではないのですが、全く時間の経過を感じさせない内容で、改訂版巻末には2021年の再対談も増補されており、こちらも本文と時間差を感じない後日談といった雰囲気でした。
私が伊勢田先生のご著書に関心を持つ理由は、先生の科学哲学への姿勢が、私にとっての統合医療への姿勢に重なって見えることです。本書の出版後、須藤氏との対談で触発され、科学哲学史の再検討に入るといったこだわり(当然私はここまでのレベルではございませんが…)や、科学哲学界自体にまとまりがないというコトを率直に認めるところなど、大いに共感しました。これは当然、統合医療の学問的曖昧さ、様々な立場の林立、そして抜本的再検討の必要性、などと重なって見えてくるわけです。
また疑似科学という問題に真正面から取り組むには、伊勢田先生の著作は避けては通れないものでもあります。伊勢田先生の招聘に関しても、統合医療=代替医療派からは、大いに反対が予想され、ここでの対談の「医療版」が静岡でも展開する可能性もあるわけです。(良いか悪いかは全く分かりません)いずれにせよ、そうした問題に対応できるアタマの状態に持っていくには絶好の対談本でした。
また後日、別角度からも本書の内容は取り上げてみたいと思います。最近は産業医の講習会に、バタバタとあちこち参加しているので、久々のブログ記事になりました。これもふくめて、統合医療の解釈が根本的に拡大していきそうですので、ぼちぼちそんなことも書いていこうかと考えております。