見出し画像

お城へTo Go (鉢形城) 

 北武蔵の要、鉢形城(18・埼玉)です。押印は平成21年の3月29日でした。このころは100名城のスタンプを開始したばかりでしたので、快調に関東の諸城を立て続けに制覇していました。
 初めて訪れた際は、車で荒川にかかる正喜橋を渡った、まさに崖の上にある城といった印象。ちょうど桜のシーズンでしたので、敷地内にある「エドヒガン桜」がとてもきれいに咲いていました。

 長尾景春によって築城された鉢形城は、同氏が山内上杉に反発して立てこもった「長尾景春の乱」の舞台となった城です。
 後に武田の侵攻や、豊臣による小田原平定戦において防戦を展開した実践経験豊かな城です。広々として眺めもよく、併設された資料館も充実しているので、とても勉強になりました。

 深沢川と荒川の合流する点の突端に笹曲輪が位置し、その奥の一段高い場所に本丸(御殿曲輪)があります。荒川越しに眺めると、難攻不落といった感じですが、二の丸、三の丸と土地が次第に開けていくので、反対側からの侵攻が弱点であり、そのため石積み土塁や堀などの防衛設備が整えられています。攻めるならこちら、といった感じでしょうか。

 実際にここを攻めた「北陸支隊」は、四方から包囲し(東方・前田利家、南方・上杉景勝、西方・本田忠勝、北方・真田昌幸)一斉に攻撃、中でも大打撃を与えたのが、本田忠勝による南西の車山から大手方面へ向けての大砲攻撃といわれます。これにより北条氏邦は降伏、開城します。このとき氏邦は、前田利家に助命され、後に金沢で没するのですが、これがのちの八王子城攻めなどに大きく影響します。つまり、この措置が手ぬるいと、秀吉に評価されることになるのです。

 一度、こうした評価を受けると、このぶんを次の戦にて挽回しないといけなくなるわけです。これにより八王子城や山中城をめぐる戦いが激化し、悲惨な結末へとつながっていきます。しかし、これがのちの小田原城の開城の伏線となるので、仕方ないといえば仕方ないのですが、局所戦だけでは評価できない良い例といえるかもしれません。

 良かれと思ってうった一手が、全体の中で、自らを次に追い込んでしまうということは、往々にして様々な場面でも見られることです。
 城めぐりにおいても、他の城と併せて考えることで、より多くの情報が得られることは少なくありません。八王子城、山中城の落城と合わせて考慮したいお城です。

 PS:局所だけの治療の有効性ばかりを追っていると全体の健康を見失うということは、珍しいことではありません。全体を把握するということが、統計的にはなかなか困難ですので。医療においてはどうしても近視眼的な方策が多く取られるように感じます。

配信元:Wikipedia


いいなと思ったら応援しよう!