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お城へ To Go (会津若松城)

 今回は会津若松城(12・福島)です。押印は平成22年8月21日でしたので、ここも東日本大震災前に押印したことになります。その後一度、訪問し現在は、赤瓦の五重天守という印象ですが、かつては普通の黒瓦で、史実に基づいた「赤」にこれから変えるということで、平成22年の時、赤瓦一枚、裏に名前を書いて寄付してきました。

 元は92万石の蒲生氏郷により、壮大な七重天守が建造されたのがはじまりです。それが1611年の大地震にて傾いてしまい、時の城主、加藤明成により五重に縮小して再建されたものが、会津戦争まで継続された天守となります。
 現在は1965年復元の天守で、2011年に黒瓦から赤瓦に葺きかえられました。

 歴史的には極めて重要な城で、ご当地では会津戦争ネタが一押しという感じでしょうか。それでも戦国の歴史もはなばなしく、頼朝による東北支配の後、蘆名によって居館(東黒川館)が立てられたことが起源となり、蘆名による領有が続きます。
 その後、米沢の伊達政宗により蘆名義広が「摺上原の戦い」で敗北、政宗が黒川城にはいります。
 しかしそれもわずか一年で、豊臣秀吉の奥羽仕置により、会津を追われ、かわりに伊勢から蒲生氏郷が入城します。この時、氏郷は出身である近江にちなんで黒川を「若松」に改名します(出身地に近い「若松の杜」に由来するといわれます)。
 その後、氏郷が40歳という若さで亡くなると、続く秀行の代でお家騒動が勃発、宇都宮へ移され、かわりに春日山城から上杉景勝が入ります。
 ここでまた大イベント発生で、関が原合戦の契機となります。歴史小説的には、石田三成と上杉景勝の共謀による家康の東北への陽動作戦ということになるのですが、実際はどうだったのか?というところでしょう。

 いずれにせよ、この家康への叛旗により関ケ原合戦へと展開していくわけです。しかし敗戦により、上杉は米沢へ移封、再度、蒲生秀行が会津に入るものの、これまた30歳で若死(さらにその子の忠郷も25歳で夭折!短命の家系なのか、呪われているのか…)。次には、「賤ヶ岳の七本槍」加藤嘉明が入城、その子明成が、五重に改築した天守が幕末まで続くのは既に書きました。
 その明成も会津騒動により所領没収、そして名君、保科正之が入城します。秀忠の隠し子、いよいよ「お江」の目を逃れて世に出ます。ここから幕末のイベントの伏線が開始です。かの名著『風雲児たち』もここから始まります(というかこんなところから始めるから終わらない・笑)

 というように歴史の流れを追うだけでも東北のオールスター登場、からの関が原、そしてそれを引きずって幕末に至っては新政府の敵役、とものがたりに事欠かないお城なのです。

 実際に訪れると、会津観光史観との批判もありますが、二本松少年隊と並ぶ「白虎隊」の悲劇の場でもあり、考えさせられる史跡がたくさんあります。
 単なる悲劇の場としてだけでなく、おそらく当時も一部の者は実情を知っていたにもかかわらず、末端の若者や婦女子は知らされることなく大義の名のもとに命を落としていたわけです。
 またこの地は、前述したように伊達、蒲生、加藤、上杉、保科と政治的にもいろいろとありそうな人達が濃厚に関連しています。東北の要衝だから、といった理由だけではないように感じるのは私だけでしょうか。

WhiteTiger ~白虎隊西部開拓譚~1
夏目義徳 ナンバーナイン 2019-03-15

配信元:裏辺研究所

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