新型コロナと統合医療について考えていて気づいたこと
新型コロナをめぐる統合医療学会の講義の準備をしていて久しぶりにケン・ウィルバーなどを考え直しておりました。(これに関しては、今週末20日にオンラインにて統合医療学会主催の講義が開催されますので、ご興味ある方はどうぞ!)
プラグマティズムについて。哲学の大学院に行っていたころ、よくこのプラグマティズムについて「そうした浅はかな西洋思想とは東洋思想とは違う」といっていた研究者がいらっしゃったのですが、巷間言われるように、成功すれば正義、というようなきわめてアメリカ的思想と考えればそうなのですが、実際にこの思想に触れると、そうした通俗的な印象とはまた異なった印象を持つものです。
私の尊敬するブロガーの意見でも、ことこのプラグマティズムに関しては、結果重視の浅はかな思想、こうした考えにより科学がおかしな方向に進んだという認識があるようです。特にデューイが批判にさらされるようです。確かに、プラグマティズム自体がその起源が2つあり、微妙に内容が異なることがこうした混乱に拍車をかけているように思います。(私自身は旗色は悪いのですが、ジェイムズのプラグマティズムを支持しています)
しかし甲野善紀先生のいう「出来ねば無意味」なども、その厳しさも含めて、やはりプラグマティズム的といってよいですし、結果を考慮に入れない思想は、その理論があらぬ方向に進展してしまうというのもまた事実です。
こうした誤作動を防ぐ意味でも、やはり現実を受け入れる「プラグマティズム」が必須になってくるように思います。
では、浅はかなアメリカ的もしくはIT社長の成功哲学的な論法に陥ることなく、どのようにこの思想を扱っていけばよいのでしょうか。
そこで必要になるのが、ケン・ウィルバーの4象限(もしくは8領域)の考え方です。これ自体、彼のインテグラルなスピリチュアリティの思想展開に多用されるので、当たり前といえば当たり前なのですが、この多元主義的なベースを導入することで、悪しきプラグマティズムへのある種の誤解が却下できると考えます。(かつて京大の藤井教授がプラグマティズム理解にはモラルがある種の必要だということを著作で述べておられましたが、その一般系として4象限は役立つと考えます)
悪しき結果論的説明に陥ることなく、現実を受け入れるというある種の柔軟性が求められる一面がプラグマティズムにはあると思います。そして、その柔軟性(ある種の曖昧さ)が、認識に大きな可能性を与えるようにも思います。そしてこれが、今回の新型コロナによる分断への処方箋の可能性もあるわけです(こうした内容が20日の講演になります)。
この辺りは天外伺朗のいう「無分別知」や、郡司ペギオ幸夫のいう自由意志・決定論・局在性のトリレンマなどとも関連してくるでしょう。
分断を乗り越えるツールとしての多元主義についてすこし考えてみました。
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