落とし前の付け方について

お久しぶりです。
えりこりんです。

更新が滞っていましたが、それは単にネタがなかったから。
このnoteの信条として、「現在進行形のものは書かない」と決めている。
つまり現在進行形でなくなったから書けるということですね。ではまいります。

恥」を知る

最後の更新から約2年、もう恋愛について考えることも、悩むことも必要ないくらい自己受容ができるようになってきたと同時に、書くことに頼らなくても生きていけるようになった気がした。
そう言いながら恋愛のネタがなかったり、ネタとして発信することが恥ずかしいと思うようになったりして、これが所謂「恥」というものなのかと思ってこの数年間過ごしてきた。
恋人になった人とは別れた後も友達でいることができる人がいることは知っていた。そして、自分が別れるならそうしたいとも。そうすることで友達と恋人の違いもはっきりするだろうし、なんだか分別がある大人みたいでかっこいい、そんな風に見えるし、自分にはできると思っていた。
だけどもやってみたけれどうまくいかなかった。今回はそんな話。

モラハラの加害者になっていた

ヨリを戻したきっかけはコロナが5類になって、行動制限が緩和されたことに始まる。付き合ったのはコロナ前からコロナ禍の時だった。相手は田舎、私は都心に住んでいたので、当時は私が彼の家に行くというスタイル。私の仕事はコロナの影響をもろに受けたので、半分失業したようなもの。1週間スパンとかで彼の家に行っては帰るという生活。思うところがあって1年後に別れたけれども、連絡先などは消さず、友達でいることにした。
そんなこんなでコロナが明け、相手の家にあった荷物を届けてもらったりして、やり取りが始まり、ずるずるとヨリを戻すことになった次第。
最初はなんだか時が戻ったみたいで楽しかった。だけどもそれは最初だけだった。枯葉を木の幹に戻したところで生き返るわけではない。
だんだん私が彼の一挙手一投足に腹を立てるようになってきた。
例えば、彼が行きたがっていた研究者と話せるイベントに行って、パネル展示で一緒に先生の話を聞いていると、いきなり彼がクイズを私に出してきた。私が答えられないでいると研究者の先生そっちのけで彼がその場で説明を始めてきた。わからないところがあれば自分で先生に聞くし、私は研究者の話を一緒に聞きに行っているわけだし、研究者に説明させろよと思ってしまった。ちなみに、私がクイズに正解すると彼は「よく知っとるな」と言ってきた。なんだかこの態度は馬鹿にされていると思ったが、その場はグッと堪えて、家に帰って彼に自分が腹を立てたこと、馬鹿にされていると感じたと話した。
私はクイズというものが嫌いだ。単に物事を知っているというだけでマウントをとることが正当化される。相手が知らなかったら説明すればいいだけなのに、正解することで「そんなのも知らないのか」と言うことが可能になる。実家で暮らしていた頃、夕食の時に両親が好きなクイズ番組を見せられて、参加させられるのが苦痛で仕方なかった。
そんな背景もあり、私はクイズを出されたことがとても腹が立ったのだと思う。「恋愛の問題は親子関係にある」とよく言うけれどもその通りだと思った。
それからと言うものの、彼のする行動に対して「頭が悪いな」とか「相手のことを考えてない」とか腹を立てるようになっていた。例えば待ち合わせ場所の写真が送られてきて、その写真の文字が反転していてどこにいるのか読みくくなっていただけでイラついたり、和食と紹介された店がイタリアンだったりしただけで「ありえへんわ」と言っていた。そんな自分が好きではなかったし、それは相手の本質を好きになっていることではないことが表面化しただけなのだとも思った。
この文の読者で些細なことで振られた人がいたらその内容は気にしなくて良いと私は思う。その内容は別れたい口実なのでなんでもよく、その実「好きではない」という理由づけでしかない。

イライラをぶつけると自分に返ってくる

そんなイライラをぶつけてしまっていると、相手と会うのが苦痛になってきた。会うと毎回何かしら怒ってしまう。そんな感じなのでセックスをすることは自分としては考えられなかった。だけども相手は求めてくる。それがとても辛かった。私はお付き合いを継続するべきではないと考え、恋人としてではなく、友人として関係を継続できないか試みることにした。「私がいつも怒ってしまうし、現在の恋愛関係は将来を考えても現実的ではない。」と伝えたのだが、「機嫌がずっと悪いのではないのだから大丈夫」といわれてしまって、それを上回る一手を打てず、何も結論が出ない会議になってしまった。
それからは、会う前から気分がどんよりしてくるようになった。別れるために頑張ることをしなくても、別れることになるアクシデントが起きるのではないかなどと他力本願な考えをしてしまったこともある。
でもふと自分の考えや状況を整理すると「やっぱり別れるべきだ」と思ったので、最後に別れ話をするために会うことにした。

自分で決めることの大事さ

別れ話をすると最初、相手はキレてきた。「それでええんやな、後悔ないんやな」と強い口調で言われた。「ああ、これは私が彼にぶつけていた怒りなのだな」と思った。でもその態度を見た瞬間一気に情も冷めた。「別れ話をして良かった」と思った。
恋愛に限らず、消去法で残ったものを選ぶと「これしかない」とか「こうなるもんだったんだ」と感じるが、自分で決めると「選んだ」ことになる。その「選ぶ」という行為は「その後のうまくいかなさもふくめて自分で引き受ける」ことであると思う。そしてそれは人生において大事なことだなと思った。これが「落とし前をつける」ことであり、それは「選ぶ」という主体性を持ち続けることでもある。恋愛に限らず、歳をとると「自分の頑張りだけではどうにもならないこと」が増えてきたり、それを言い訳したりするのに慣れてくる。ネガティブケイパビリティのように結論を急がず、不確実さの中に身をおくことも大事にしつつ、「ここだ」というときを見極めて適切に手を打てる人でいたいなと思った。
その後相手と話していくと怒りもおさまったようで「無理させてごめん」と言ってくれた。「私も気持ちに応えられなくてごめん」と話して円満に別れることができた。
彼にはたくさん学ばせてもらったし、私のわがままを文句も言わず聞いてくれたので、とても感謝している。

結局、別れても友達という人間関係はできなかった
自分はそこまで分別がある人間ではなかった。


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