恋は振り付けのないダンスを踊ることと恋愛について
どうも、えりこりんです。
最近は振り付けのないダンスにハマっていて、それについて考えたいと思って筆を取りました。
私とダンス
私はダンスを小学校5年くらいから習っていました。ダンスを習い始めたのが遅かったし、元々器用ではないので先生にはめちゃめちゃ怒られました。怒られすぎて頭が痛くなるときもありました。
だけど家の事情で通えなくなるまでは辞めませんでした。
ダンスをしている時はめちゃめちゃ楽しいし、自分でいられた気がして、上手になるために一生懸命先輩を観察した覚えがあります。
特に中学の授業中は頭の中でダンスのイメトレをしてました。
ダンスが好きだから、高校はダンス部が強い高校に進学し、大学ではよさこいの振り付けをしました。
その頃はダンス解説動画などがまだなかったので、友達に頼まれてYouTubeやアニメの動画のダンスを解説して友達に教えていました。
振り付けをするということ
私は高校の創作ダンスでも大学のよさこいでも「振り付けを作る」ということをしていたように思います。それはどういうことかというと、「その時流れる音と伝えたいイメージを表現するために体の動かし方を決めて、それをチームメイトに伝える」ということでした。そうなると、隊列ごとに「ここはこういうイメージで、誰が一番目立って、このパートはこういう役割をしなければならない」ということが規定され、それに則って踊るように指示をするということになるわけです。
つまり作る側も観客側に見てほしいところを規定していて、踊る側は「ドヤ」ってアピールする、その場面を作るということです。
人に見せるものを作るというのはそういうことだと思っていました。
そうするとダンスというものに対するイメージが「決められた振り付けを踊る」というものになってくるわけです。
つまり「正しい動き」が常にあることになります。
その振り付けが正しく再現できているか、キレイかカッコ悪いか、技術を要するものか要しないか、揃っているか、揃っていないかで踊りの上手い下手が決まると思っていました。
教える時はチームメイトが楽に正しい振り付けを踊れるように教えていましたし、振り付けをするというのは「正しい」を規定することでもあるので、「正しさ」をブラさないことにも注力していたように思います。
大学の後しばらく踊っていなかったのですが、就職後に習い始めたダンスでも振り付けが規定されていました。
振り付けがないとはどういうことか
大学を卒業してすぐの頃、あるご縁でコンテンポラリーダンスの公演に出たことがありました。
即興なので、テーマなどがその場で与えられ、自分の準備ができたら舞台に立って踊るというもので、振り付けはありません。
出演者の方々は皆スラスラと踊っていくなか、コンテンポラリーのコの字も知らなかった私は「どうしよう」「体が動かない」「このままじゃ迷惑をかける」など、いろいろなことを考えてしまい、「これでいいのかな」と思ったまま踊りました。
この体験は生まれて初めて感じたダンスのもやもや体験となりました。
そして、今年、社会人向けのある大学の講座を受けて、振り付けのないダンスを作ることにハマっていきました。
授業で先生が次々とイメージを言って、それに合わせて体を動かすというウォーミングアップがあったのですが、それを楽しんでる自分がいました。
そこには昔全然何をしたら良いかわからなくて余計なことを考えていた自分はいません。
インプットされている動きの数が増えていることもあるのだろうけれども、自分の体の調子や自分の気持ちを大事にすることで「この動きがすごいからこれしなきゃ」ということもなく、ありのままでいられた気がします。
そうするとダンスの観念が変わってきました。
「決まった何か」や「凄さ」「これ見てドヤ」の表現ではなく、「今の自分」をありのままに表現する手段だなということだとも思いました。
そしてそれは恋愛にもつながるのではないだろうかとも。
デートプランと振り付け
恋のはじまり研究所を開いて8年がすぎました。いろんな人のいろんな恋愛の話を聞きました。恋愛の話を聞くのが嫌になるくらいしました。
その中で、恋愛の実績が豊富な方は鉄板のデートプランを持っていることが多いことに気づきました。
特に告白やプロポーズなど大事な物事を決めたい時のデートは、そのタイミングと周りの環境を入念に作り込む人もいます。
その行為は盛り上がりを規定して、「ここの俺、私を見てくださいね、そしていい返事をください」と言っているようなものかもしれません。
フラッシュモブが流行ったのもそういう理由はそれを倍増させることだったからだと思います。だからフラッシュモブ反対派のいう「agreeしなきゃいけない気にさせられる」というのも納得できます。
話を戻すと、見ている人などの相手に対して盛り上がりをつけるということは、振り付けをすることにも通ずることなのではないでしょうか。
それを相手に見せている時、本人は気持ちいい。スーパーナルシストモードはもう何がなんでも気持ちいい・・・・。でも期待通りの行動をしたところで相手は自分が見てほしいところを見ているのだろうか。
振り付けをどこからみるか
この前、振り付けのないダンスワークショップを作って皆でやるという会に参加しました。
ワークショップはたくさん作ってきたが、ダンスは初めてで、私はメインアクティビティを作るのを担当しました。
作ったものは思いがけず時間がかかって最後までできませんでした。
自分としては最後にやりたいことを持ってきていたのですが、その時間はなく削れてしまいました。
私は時間が足りなくなったことを悔やみましたが、参加していた方が「同時多発的にいろんな物事が起きていてそれを見ているのもそれに加わるのも楽しかった」と言ってくださった。そうか、自分たちがしようとしていたこととは別のことを受けとってもらうこともあるんだと思いました。つまり、「これを見てほしい」と提示することも必要かもしれないが、同じ物事だと思っても捉え方が違うし、そのこと自体が面白いと思えることが人間の良さなのかもしれません。
国語の読解に正解はあるが、体験をどこから見るかに正解はないのではないと思いました。
そしてその体験は誰がするか、どうするかによって受け取り方が全然違うものだったりします。
意図されていなかったものであったけれども、そこで発生するものがかけがえのない一度きりのものだし、こういう体験は振り付けが規定されているダンスではなかなか起きないことだなとも思いました。
自然発生的に起きたものに目を向けることはプランの変更自体を楽しむことにもなる。
そういう余裕が人生には必要なんじゃないかと思いました。
同じ言葉で表現をしていても違うことを言っていることもある。
お互いが思っている「こういう私が好きなんでしょう」というその人の好きの規定は変化するものでもあるだろう。
自分自身で一杯一杯な私だからこそ、今流れている時間を大事にして、ちゃんと人を見なきゃなと思った次第でした。