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戦場のブラックジャック

彼は気弱な戦士であった。

幼少期、親の転勤に伴い、私は数多くの小学校を転々とした。公立の小学校は地域によって治安が大きく異なり、いじめっ子になることもあれば、いじめられっ子になることもあった。毎回新しい環境に慣れるのは容易ではなかった。

小学校高学年の頃、また新たな土地に引っ越すことになった。その地域は治安が悪く、成人式の日には特攻服を着た若者たちがバイクを爆音で走らせるような場所だった。「半年間だけだから」と親に言われ、転校に慣れていた私は二つ返事で元いた学校の友人たちに別れを告げた。どうせ友達を作ってもすぐに離れると自分に言い聞かせ、転校した。


一番後ろの席に初めて座った私の前には一際大きい背中があった。決して大きくない私にとってはまるで大きな岩のようだった。所々黒板が見えにくい時は軽く背伸びをして授業を受けていた。ただ私は決して彼に声をかけることもなく、彼もまた大人しく過ごしていた。そんな彼の本名は「岩間」で、「岩ちゃん」と呼ばれていた。

私と岩ちゃんが仲良くなったのは、ある蒸し暑い夏の日だった。昼休みにドッジボールをしていた時、ある男の子が突然嘔吐した。大人はいない。私は当時『ブラックジャック』にハマっており、小学生向けの救急対応の本を読んでいたので、熱中症だと気づいた。「先生を呼んで」「水を持ってきて」とクラスメイトに指示し、岩ちゃんには「木陰に運んで」と頼んだ。岩ちゃんは軽々と男の子を抱えて木陰に連れて行き、その頼もしさに感動した。

そのクラスメイトは大きな問題なく回復し、私はまるでブラックジャックになれたような気がした。私の人生で初めて人を助けたという誇れる経験だった。そして、それは岩ちゃんにとっても同じだったようで、以後私たちはよく遊ぶようになった。岩ちゃんは図体に似合わず気が弱く、家で遊ぶことを好んだ。

そんな彼が私の部屋にあった『ブラックジャック』に夢中になった。私たちはそれぞれが好んだ話について語り合った。特に二人が気に入ったのは「ハローCQ」という話だった。筋ジストロフィーを患う少年が、アマチュア無線でニュージーランドの少年と会話する話だ。その少年は「自分は野球が得意なスポーツマンだ」と嘘をついていた。しかし、ニュージーランドの少年が日本に来ると告げたことで、嘘がバレるのを恐れた少年は絶交を言い渡してしまう。それでも、最終的には友情を取り戻すという感動的な物語だった。その話の結末に、私たちは深く感動した。

私達は深い話をする仲になった。岩ちゃんのお父さんは自衛隊員として働いていた。なかなか会うことができないお父さんであったが、格好よく、そして、そんなお父さんのようになりたいと言っていた。

約束の半年が過ぎた。岩ちゃんは私に1本の万年筆をプレゼントしてくれた。私は彼に「ハローCQ」が収録された『ブラックジャック』をプレゼントした。私は「ブラックジャックのような医師になる」と言い、岩ちゃんは「日本を守る兵士になりたい」と語った。いつか傷ついた時には私が助けるという約束も交わした。

その後も何度か連絡を取り合った。

中学生の時、メールで「成績優秀で、このままブラックジャックのような名医になる」と伝えた。当時の私は深海魚のような成績だったにもかかわらず、見栄を張ったのだ。岩ちゃんにはこのままでは顔向けができないと思った。高校生の時には成績が持ち直し、今度は自信を持って「名医になる」と伝えた。

成人式の時には「医学部に入学した」「防衛大学に入学した」と話した。2人とも着実に夢に向かって歩んでいた。そして大学4年生の時、彼は卒業のはずであった。私は久しぶりに彼に会いたいなと思っていた。「久々に会おうか」と提案した。しかし、「忙しい」と断られてしまった。以後彼とは連絡がつかなくなった。

その後風の噂で、岩ちゃんが大学の環境に耐えられず退学し、実家で生活していることを聞いた。今でも私の部屋には『ブラックジャック』が1巻を除いて並んでいる。その空いたスペースには、岩ちゃんがくれた万年筆を置いている。

なあ、岩ちゃん。確かに俺は戦場で君を救うブラックジャックになりたかった。君は部屋で戦場に怯えているのかもしれない。戦士でなくなったかもしれない。それでもいいんだ。また話したいんだ、二人が大好きだった、君の部屋にあるであろうブラックジャックの話を。そして迎えたいんだ「ハローCQ」のようなハッピーエンドを。

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