松本浩一郎先生

灘中高卒→京都大学医学部医学科卒→内科医、元鉄緑会講師 教育系、医学系の話を呟きます 思い出の人についてのエッセイもあります。

松本浩一郎先生

灘中高卒→京都大学医学部医学科卒→内科医、元鉄緑会講師 教育系、医学系の話を呟きます 思い出の人についてのエッセイもあります。

最近の記事

祖母と向日葵とフレンチトースト

夏が終わりを迎える。幼い頃から私は毎年、夏になると祖母と過ごしてきた。今年も仕事の休みを取り、祖母の家へ向かっている。蝉の声が響く中、泊まりの荷物を入れたバッグが両肩に食い込み、少しずつ祖母の家に近づいていく。駅から20分ほど離れた住宅街にある祖母の家は、その地域に溶け込んだ一軒家だ。 祖母は毎年、私を家の前で待ってくれていて、私を見つけると大きく手を振ってくれる。私も手を振り返しながら、祖母の家へと歩みを進める。 「よく来たね。暑いでしょう、ガリガリ君。」 いつもそう言っ

    • 戦場のブラックジャック

      彼は気弱な戦士であった。 幼少期、親の転勤に伴い、私は数多くの小学校を転々とした。公立の小学校は地域によって治安が大きく異なり、いじめっ子になることもあれば、いじめられっ子になることもあった。毎回新しい環境に慣れるのは容易ではなかった。 小学校高学年の頃、また新たな土地に引っ越すことになった。その地域は治安が悪く、成人式の日には特攻服を着た若者たちがバイクを爆音で走らせるような場所だった。「半年間だけだから」と親に言われ、転校に慣れていた私は二つ返事で元いた学校の友人たち

      • 発明家と宇宙飛行士は自由であった

        私は幼少期に四谷大塚で2度敗北を経験した。 両親は受験競争というものには無縁の人間達であった。そのため、姉も私も幼い時に塾というものには通ったことがなかった。 勿論完全に一般家庭かと問われるとそう言い切れない部分がある。我が家は祖父母交えてトランプゲーム、ボードゲーム大会が毎週のように開催されていた。ボードゲームはオセロ、チェス、将棋、囲碁、その他世界的に有名なボードゲームがさまざまに行われていた。そして、幼い姉、私が負けて悔し涙を流すと「泣くな!興が醒める!悔しければ勝

        • 桜と共に思い出す同級生

          私の記憶に深く刻まれた同級生がいる。 地方の小さな公立小学校に通っていた際のクラスメイトだが、クラスの厄介者という点のみ共通していた。 私は学業成績は優秀だったものの、社会性に欠け、教師からあまり好かれていなかった。「先生の説明は間違っています!」と言い放つこともしばしばで、今思えば授業を乱していた。 一方、彼は授業中にもかかわらず走り回るような子供だった。勉強には全くついていけておらず、教師も手を焼いていた。 ある日、私たちは行儀が悪いとして先生に叱られ、図書館での

          彼女と連ねる英単語帳

          私は大変不純な動機で勉学に励んだ。 私が塾に通い出したのは高校2年生であり、中学から勉強をサボり続けていた私に塾のテストは難しすぎた。当然一番下のクラスであり全くといっていいほど最初はついていけなかった。 そんな中塾の廊下を歩いているときに前から歩いてくる女の子に目を奪われた。 男子校生の私はどうにかして話そうと考えた。が、そのチャンスはすぐにやってきた。たまたま夜食を買いに出た塾近くのコンビニに彼女はいた。私は勇気を振り絞り声をかけ連絡先を交換したのであった。 話が

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          父が風呂場で語ってくれた数学小噺

          肥満体型の父は、日々仕事から息を切らせ、汗まみれで帰宅していた。幼い私にとっての日課は、そんな父と共に風呂に入ることだった。 風呂場は、父の話に耳を傾ける場所であった。 そして彼の話が一段落つくと、私には試練が待っていた。父が出す計算問題を1問3秒以内で100問解かねば、風呂から上がることが許されなかったのだ。時には私が倒れてしまい母に叱られる父の姿も見たが、父との風呂の時間を拒んだことは一度もなかった。なぜなら、父が風呂場で語る様々な話は常に私の興味を惹いたからだ。 あ

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          英語ができないスーパーヒーロー

          私は英語ができないスーパーヒーローであった。 小学生だった私と母は、夏休みにニューヨークへ渡った。叔父が急逝し、2人の従兄弟の面倒を一時的に見る必要があったからだ。すでに中学生の姉と父は留守番だったが、私は折角の機会として連れて行かれた。 初めての海外に心躍らせていた私だが、同時に大きな不安を抱えていた。早期英語教育とは無縁の私が知っていた英語は「ハロー」「イエス」「ジャパニーズ」のみ。従兄弟は日本人で、母も一緒だから安心だと考えていた。しかし、母は私に突然「現地校のサマ

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          祖父と『虚数の情緒』

          祖父は東大を4回落ちて、私大に進みました。 口癖は、「学歴なんていらん」 で、灘に合格した時も、「灘の何が偉いんや」 と返してくるような人でした。 そんな祖父が中学1年生の時に、「これをやる」とくれたのが『虚数の情緒』でした。 1000ページにも及ぶ数学の本で、虚数???の私には荷が重く、愛想笑いで受け取り、本棚の飾りとなりました。 数年後に再会した時、見るからに痩せこけた祖父。体調が優れないことは一目瞭然でした。息苦しそうに前屈みで弁当を食べている時に、「最近

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