「多様性と調和」は両立しない!?
2021年9月17日の毎日新聞の「論点:多様性とは何か」で、YSCグローバル・スクールの田中宝紀が、先の東京オリンピック・パラリンピックの3つの基本コンセプトの一つである「多様性と調和」をめぐって以下のような発言をしていました。「世界中の選手が集う五輪で「多様性」をうたったのは理解できるが、「調和」の並記に違和感が残った。「多様性」という言葉が日本で多用されるのは、現実が不寛容であることの裏返しだ。そんな社会で調和を唱えても同化(同質化)と同義で、同化の圧力によって苦しい思いをする人の存在を考えてしまう。」 わたし自身はこのように「多様性」と「調和」の2者を並べて見たり聞いたりした記憶はありませんが、もし目にしたり耳にしたりしていれば、田中氏と同じように違和感を感じただろうと思います。田中氏は、同記事の中で「「多様性が確保されている」とは、あらゆる人が普通の社会資源を当たり前に使えて、機会の平等が実現している状態」と端的に説明しています。「なるほど!」です。そして、この「社会資源を当たり前に使えて、機会の平等が実現している」はただ制度がそのようになっているというだけでなく、社会の構成員がそれを当然のことと考えて(態度)「フツーに」そのように振るまうこと(行動)も含まれているでしょう。
なぜ「多様性と調和」が、適切ではないのでしょうか。
「調和」ということばは、何とも美しい響きがあります。「調和」と言われると、日本人!?の多くの人は「そうだ、そうだ。調和が大事だ!」と思うでしょう。(←「日本人」というのもそもそも曖昧な存在ですが!) 田中氏が「多様性と調和」に違和感を感じていらっしゃるのは、「多様性を「フツー」と考えることがまだ普及しておらず、社会資源へのアクセスや機会の平等などがまだ実現していない現状で、一足飛びに「調和」を言うのは尚早だろう」との感覚かと思います。
こうした社会的課題を克服していくためには、具体的にそれにふさわしい行動やそれに向けた行動をするとともに、社会の構成員一人ひとりが「多様性」や「多様性の認め合い」ということについての感性や感受性を磨く必要があるでしょう。田中氏の指摘はそんなことを思い起こさせてくれました。
ちなみに、あと2人の論者は、岩淵功一氏(関西学院大学社会学部教授)は「トークニズム」(口で言うばかりで実際の社会変革が伴っていないこと)の陥穽を指摘し、また「さまざまな差異を持つ人たちを平等に包含することが重要なのは、それが社会に生産性をもたらすからではない。有用さを強調することで、差異をめぐる差別構造や不平等に正面から向き合い、その解消に取り組むことが後景化されて」しまうという危惧を表明していました。そして、森下光泰氏(NHKEテレ「バリバラ」チーフプロデューサー)は、「「あらゆる場面でマジョリティーの人」も「あらゆる場面でマイノリティーの人」もいない」と指摘し、「「バリバラ」が目指すのは、そのような「多様性のある社会」だ」と論じています。